『ハゲタカ』(上・下)
著者 真山仁


 文庫版上下二巻を続けて読んだ。6月に映画版『ハゲタカ』を観たせいか、妙に大森南朋の顔がちらついたが、TV版は観てないので、リンや貴子は誰が演じたのだろうと気になった。この三人の人物造形が格別に魅力的だったように思う。

 それにしても、改めて小泉政権下での竹中政策のことが思い出され、作中の言葉で言う“国賊”(下巻P241)に他ならないと不愉快極まりない。

 戦争映画が多くの場合、戦況や戦場を具体的に描きながらも戦争そのものを主題とするわけではなく、苛烈な状況下に生きる登場人物たちの緊迫感のある関係性と造形された人物像をドラマチックに味わうことに重きが置かれているのと同じようなスタンスで出来上がっている小説だと思った。そういう意味では、僕が戦争映画は好きだけれども、戦争が嫌いなのと同じく、鷲津の言う我々のビジネスで勝利できるかどうかは、情報とネットワークが全てだ。(上巻P144)などというゲーム性に満ちたビジネスは、下品で胡散臭くて嫌いだ。
 鷲津政彦の場合は、とある人物の自死の謎を追うという秘めたる志があったが、かようなビジネスに邁進する動機の第一義が金銭欲や功名心そのものになってしまうと、このビジネス自体の持っている下品さと胡散臭さが動機の浅ましさによって増幅されて、なんとも醜悪な世界になってしまう。この作品の鷲津にしてもリンにしても貴子にしても、M&Aビジネスに携わる動機の第一義に功名心や金銭欲が微塵も窺えない人物として造形されていたのは、それゆえのことなのだろう。
 下巻の終盤でも再度登場したリンの私はフェアとラブって言葉が、一番嫌いだって。大事なのはパッションよ(上巻P257)という台詞がとりわけ印象深い。一番嫌いなどという反応をすること自体が、その言葉に対する感度の高さを物語っているわけだが、その感性を保ちつつ素朴な形のフェアとラブを排して生きざるを得ない世界を選び身を置いて、絶妙のバランスで破綻を来たさずに全うしている能力の高さと精神力のタフさが魅力的に映ってくる仕掛けになっている。そのリンを凌駕して一段の高みに位置して世界を手玉に取るのが鷲津政彦というわけだ。

 芝野の自問俺達が過ごしてきた日々は、ずっと言い訳の連続だった。自分はそうじゃないと思っているんだが、それがままならないのが社会。会社員に求められるのは、定められたルールの中での適合力。長いものには巻かれよ、一時の義侠心や正義感を振りかざせば、それは一生のツケとなって戻ってくる−−。(上巻P222)日本が抱えている混沌を“外資”のせいにするのは、おかしいかも知れない。連中は、ただそこにビジネスチャンスがあるから、群がってくるに過ぎない。(上巻P393)、鷲津の訓戒失敗する最大の原因は、人だ。…細心の注意を払っても、時として人の気まぐれや変心、あるいはハプニングのせいで、不測の事態が起きるんだ。だから結果を焦るな。そして馴れ合うな。(上巻P453)大切なのは真実ではなく、最初に伝えられる事実(下巻P13)などには、かねてより自分の思っていることと重なる部分も多々あった。違和感溢れる世界に身を置く人物たちに些かの違和感もなく共感を覚えられる点でも戦争映画と似た作りがされているように思う。

 ちょうど東京出張中に読んでいたら東京という街は、不思議な街だ。ビジネスを迅速に進めるには、地下鉄を利用するのが一番良いのだが、そうするとこの街は、灰色のコンクリート要塞になってしまう。あるいは車で移動しようとすると、至る所に人と車が溢れ、まさに都会を象徴した“混沌”の機能不全を感じさせる。それが、ひとたび徒歩で街を動き始めると、途端にこの街は別の魅力を見せ始めるのだ。ビル街の間に点在する緑、そして古い民家が散在して、人間という生き物が必死で呼吸しようと、街とせめぎ合っている−−そんな生命力に溢れている。(上巻P326)と書いてあるのに触れ、思わずニンマリ。学生時分に住んだきりで、あとは出張とかで来る以外に殆ど縁のない地で、今回も約十年ぶりの出張で訪れたのだが、永田町から内幸町まで歩いたり、赤坂から六本木まで歩いたりしてみたところだったので、なるほどそうだったと思った次第。そうそう水道橋から御茶ノ水の間も歩いたのだった。

 もう一つ欧米では、職業を尋ねられて会社員だの、サラリーマンだのと答える人は誰もいない。彼らはそれぞれ自らの“仕事”を明確に答える。バンカー、証券マン、あるいは工場労働者でありウエイトレスだ。しかし、日本人はなぜかみな“サラリーマン”と胸を張って答える。これが、嘗てこの国を経済大国に押し上げた原動力であり、またバブル経済が崩壊しても右往左往するばかりで傷を大きくしてしまった原因でもあった。(上巻P142)とあるのを読んで、僕も給与所得者ではあるが、自らを“サラリーマン”と称したことはなかったことに思い当たった。
 さして例外的だという意識はなかったのだけれども、この国の給与所得者のなかでは少数者の側だったのかと改めて思った。思えば就職に際して、いわゆる会社訪問というものをしたくなくて、一度も経験せずに来ているわけだが、それは幸いなことだったのかもしれない。


by ヤマ

'09.11.23. 講談社文庫



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