☆ちょっと昔話☆

マダムNの超個人的なお話のページですが・・・( ̄▽ ̄)



〜涙の意味〜



男性と初めて付き合ったのは、高校三年の18歳のとき。←遅っっっ!
しかも、相手は10歳も年上のバイト先の店長だった( ̄▽ ̄)←ありがち?
初めての彼氏が、かなり年上・・・というのもあってか、タメ年の男の子には
まるで興味がなかった。だから、年の近い男の子とは付き合ったことがない。
↑そのときには思ってなかったけど、若い時期に若い男の子と恋愛しとけばよかった〜
・・・って、今は思うよ。・・・・もったいないっっっ!

もちろん、初めて関係を持ったのも その彼である(`▽´)
当時、その彼は一人暮らしをしていたので、ほぼ毎日のように入り浸って、
半同棲生活のようなかんじだった。楽しかった。
何もかもが初めてのことだったので、すごくワクワクしていたのを憶えている。

あるとき、彼の部屋で偶然 日記帳を見つけた。
彼は留守にしていたので、こっそりと中を見てしまった。
そこには・・・至るところに「○○」(←私の本名)の文字が・・・。
その内容すべてが、私に対する想いを綴ったものだった。
切ないくらいに彼の気持ちが伝わってきた。自然と涙が出てきた。
そのときの涙は、「嬉しい」とか「幸せ」とかではなく、もっと別の何かだった。
じゃあ、何だろう?と考えてみたけどわからない。
でも、涙が止まらなかった。

今、考えると・・・・
それは、自分が「必要とされている人間」だということが
読み取れたからではないだろうか?




〜ただ見ていてほしいだけなのに〜



「○○ちゃんのおばちゃん、こんにちは!」
元気な声が響く。

その声で、まわりがパッと明るくなった。
いつも遊ぶの公園での、いつもの光景である。

表情が豊かで、教えられたことは何でもすぐ覚え、愛想よく挨拶する子だったので、周りの大人からは、「しっかりしてるね、えらいね」と、よく言われて、評判もよかった。
私は、自慢の娘だった。

この頃の私は、〜〜がしたい。などの欲求を自分から言うことはなく、親にダメ!と言われたことには素直に引き下がり、決して我がままを言う子ではなかった。
子供特有の「好奇心」というものが、私にはなかったのだろうか?
いずれにせよ、親にとってみたら、非常に扱いやすい子供だっただろう。

私は、一人っ子が長かったせいか、超マイペースな一面もあった。
要するに、ケタはずれのノロマ・・・ってコトである。

そんな私が4歳になり、幼稚園の入園が決まった頃に、母が ある行動に出た。
それは・・・・
私に「ごはんをもっと早く食べれるようにする為の訓練」だった。
私は、とくに嫌がりもせずに、その訓練を受けた。
そして、幼稚園に通う頃には、人並みの速さで食べられるようになり、親も一安心した様子だった。

自分から進んで何かをする・・・
ということをしたことがない私だったが、しかし、そんな私が
初めて自分から始めて、夢中になったものが一つだけあった。それは・・・・

広告の裏に描く、お絵かきだった。
それを見ていた母は、「この子は、お絵かきが好きな子なのね」と、スケッチブックと色鉛筆を
与えてくれた。これが、私とお絵かきとの出会い。
何気ない お絵かきの中で、何かを見つけたのだろう。


5歳のとき、私は「お姉ちゃん」になった。妹が生まれたのだ。
昼夜問わず泣き続ける妹。妹に付きっきりの母。
そんな母の口癖のようなセリフ・・・「お姉ちゃんなんだから、ガマンしなさい。」
妹なんていらないって思った。
お姉ちゃんになったら、何でもガマンしなくちゃいけないの?
出かかった言葉だったけど、言わなかった。
言ったらいけないような気がしたから・・・。
すごく寂しかった。
大好きなお絵かきをしていても、楽しくなかった。

いつもの時間に、幼稚園バスが来る。バスが来たとたんに、おなかが痛くなった。
「今日は休ませます」と、そのままバスを見送った。
バスが行ってしまったとたん、おなかの痛みなんて すっかり消えていた。
さっきまで、あんなに痛かったのに・・・・。

腹痛は、この日だけではなかった。
バスが到着すると必ず痛くなり、バスが行ってしまうと、ケロっと治る。
初めの二回ぐらいは、休ませますと言っていた母だったが、同じことが何回も続いたので、
「仮病」だと思われてしまい、「幼稚園に行きなさい」と、バスに乗らされるハメになってしまった。

子供なら よくある、「親の気を引こうとする行動」だったのかもしれない。
母に対して、私を見てほしい、かまってほしい・・・という思いが強いストレスになっていたのだろう。
言葉でモノを伝える…ということが上手く出来なかった私だったから、このようなことが起こったのだと思う。

子供というのは、無条件に母親のことが好きなのだ。
独り占めしたいと思うのは当たり前のこと。

どうして気付いてくれないの?
心の中で、何度も叫んでいた。

それから何日か経った。
母の「お姉ちゃんなんだから・・・」は、変わらずに続いていたが、もう、バスが来ても腹痛は起こらなくなっていた。
その姿を見て、安心した表情を見せた母だったが、私はというと・・・・
いつまでたっても私の気持ちに気付いてくれない母に、怒りをおぼえていた。


今思うと、この頃からだっただろうか・・・私に対する干渉が始まったのは。





〜閉ざされた道〜


小学生になり、親から少し離れ、友達同士で遊ぶようになってからは、母のいいつけをすべて守る・・・ということに疑問を感じるようになっていた。

子供だって、一人の人間である。感情だってある。
もう、あの頃とは違う。何でも素直に言うことを聞いていたあの頃の私ではない。
親のいいなりになる必要はない。
母に反抗することもしばしばあった。
しかし、それと同時に、母の干渉はエスカレートしていった。

ちょっと近所で遊ぶときでも、「〜〜に住んでる○○ちゃんと、〜〜に行って来る」ということを正確に伝え、いちいち母の承諾が必要だった。
たまに、初めて聞く子の名前が出たときには、それこそ大変だった。
「その子、どんな子なの?どこに住んでる子なの?カワイイ子なの?」などと、必要以上に詮索してくる母。
評判のいい子なら、にっこりとしながら「いってらっしゃい、気をつけてね」と、すんなり送り出してくれるが、聞いたことのない子や、あんまり噂を聞かない目立たない子だったりすると、
「そんな子と一緒に遊びたいの?・・・ふ〜ん・・・」と、バカにしたようなセリフを吐き捨てられることも しばしばあった。
家に帰ったら帰ったで、何をして遊んできたのかと聞かれ、事細かに伝えなければいけなかった。
たまに、遊びの内容にまでケチつけられることもあった。
電話を使いたいときも、○○ちゃんに、〜〜の用事があるから、電話をかけたい。
ということを言って、OKをもらわなければならなかった。
電話をかけている私の後ろで、母が会話のチェックをしている…というのは言うまでもない。

あれしちゃダメ、これしちゃダメ、あれもダメ、これもダメ。
私に選択の余地はなかった。

そう、母は この家の法律なのだ。かなりタチの悪い法律。

例えば、私の行動により、悪い結果を招いたとする。
どうしてそのような結果になったのか、途中経過を聞くこともなく、「悪い結果」だけで母は判断する。
「あなたが悪い!」
「これには理由があるんだから、最後まで聞いてよ!」

「あなたが悪い」
「あなたが悪い」
「あなたが悪い」

その経緯を話そうとしても、「いいわけは聞きたくない。とにかく、あなたが悪い」の一点張りだ。
ついでにビンタも飛んでくる。

反抗したところで、何も変わらないということがわかった。
反抗するだけ体力と時間のムダだと感じた。
人間、話せばわかる!というのは、嘘っぱちだ。
この言葉は、母の中には存在しない。
この人は、聞く耳を持たない。自分の考えこそがすべてなのだ。


私は、家でも学校でも、余計なことは一切 言わなかった。
何か聞かれれば、しっかりと受け答えする・・・それだけしていればいいと思った。

「なにか言ってもムダだから」
「時間のムダになるだけ」

もうすでに、何に対しても無関心だった。


私が小6のとき、妹が小学校に入学してきた。
妹は、小さい頃から活発で、まさに「野生人」と呼ぶにふさわしかった。
勉強のほうは、そんなに出来るというわけではなかったが、運動ではかなり成績が良く、学年のロードレース大会では、必ずといっていいほど10位以内に入っていた。
妹の活躍で 鼻高々の母がいつもいた。
「○○(妹の名前)のときは、応援にも力が入るけど・・・・
お姉ちゃんのときには、見に行っても面白くないのよね。だって、ほとんどの子がゴールしてるのに、いくら待ってもなかなか来ないんだもの。かえって恥ずかしいわよ」
「勉強もダメ、運動もダメ…っていったら、自慢できること何にもないじゃない」
な〜んてことは、しょっちゅう言われていた。
挙句の果てには・・・
「小っちゃいときには自慢できる子だったのに・・・」と、ため息混じりに言われたこともあった。

学期末に渡される通知表は、三段階評価だった。
Aは「良い」、Bは「普通」、Cは「悪い」
もちろん、Aなどひとつもなく、オールB。運が悪いと、Cがあったりもした。
可もなく不可もなく・・・という、中途半端な位置である。
担任からのコメントは、いかにも適当で、普通ということが強調されている内容であった。
その場に居るか居ないかわからない、居ても邪魔にならない…私は、そんな感じの存在だった。


あのときまでは、私だけを見てほしい!と、心から思っていたのに・・・・
あのときから・・・・バスの出来事があってから、母への想いというものは もうすでに消えていたし、微塵もなかった。
生活していく上で、母親としての役割は きちんと果たされていたので、その点で感謝の気持ちは多少あったが、尊敬したことは一度もなかった。

親にとって、子供とは一体なんなのだろう?
自慢する道具にしかすぎないのか?
近所に住む子供の いい噂話なんかが耳に入ってくる・・・
なんていうのは しょっちゅうあることだ。
自分の子供の自慢話をしたがる親がうじゃうじゃ存在しているのだから。

「お姉ちゃんのこと、何も話さないでいると、逆に聞かれるから困っちゃうのよね」
・・・あっそ。じゃ、褒めるとこ何にもないバカな子です♪って答えりゃいいじゃん!と思った。
「お母さんの子なら、もっと勉強できてもおかしくないハズなんだけど・・・・
絵も、好きなわりには上手くないし・・・・やっぱり、向こう(父親)の血なのね。」
完全に、父親をもバカにしている発言である。
私は、父親のことも好きではなかったので、なんと言われようと そんなことどうでもよかった。
そんなヤツと一緒になったアンタが いちばん愚か者だよ…と、内心おかしかった。

ある日のことだった。
すごい剣幕で怒鳴りつける母。

「ちょっと!あなた、まわりに何て言われているか知ってるの?」
「・・・・なに?」ぶっきらぼうに聞く。
「会話も ろくにできないバカな子・・・って言われているんですって!?」

ああ、そういえば、近所のババァたちがヒソヒソ話しているのを聞いたなぁ・・・。
私の姿を見たら、慌てながら「あらっ、おかえりなさい〜♪」・・・だって。
これは笑えたね。

そんな環境で居ながら、家を出たいと思ったことは一度もなかった。
私は、衝動的なタイプではなく、常に客観的に物事を考えるタイプだ。
家の中では、ごはんも食べれるし、布団で眠ることだって出来る。
それに、テレビだって見られる。
当たり前の生活が出来るというわけだ。
それに、中学までは義務教育だし、どうしたって親の世話にならなくてはいけない。
・・・そんなことを、つらつらと考えていた。





〜運命の転機〜



そして、私は中1になった。
なんとなく、テンション上げてみようと思った。
「普通」から抜け出してみるのもいいかもしれないと思ったからである。

テンションが高いと、自然と変なギャグが出てくる。
私のまわりでは、いつもギャグが飛び交っていたし、話題も笑いも絶えなかった。
まわりからは、「妙なやつ」と注目され、他のクラスの子らも覗きに来ては、「ああ、あの色の白いのが妙なやつか〜」と、ちょっと有名人(?)だった。
そうそう、母親が東北出身なので、それを受け継いで、かなりの色白なのである。
色が白いのも手伝って、よけいに目立っていたのかもしれない。
今までの、「おとなし目の目立たない子」から一転して、「色の白い妙なヤツ」
なんだか、ちょっと不思議な気分だった。

「妙」と言われていたけど、注目されることが気持ちよかった。最高だった。
担任からも、「おぅ、○○〜!」(←下の名前)と、フレンドリ〜に呼ばれるのも嬉しかった。
毎日が、最高に楽しかった。

中学生になってから、初めての通知表が渡された。
勉強のほうで言えば・・・・ほとんどがBかC(@悪い〜D良い)だったが、
担任からのコメントが一味違っていた。
私が今まで目にしたことがないような明るい言葉がたくさん書かれていた。
書くことがいっぱいありすぎてか、コメント欄から はみ出して書かれていたことが、今でも印象に残っている。

この時期が、運命の転機だったと言えるだろう。




〜別離〜



そんな私が18歳のときに、両親が離婚した。
あ〜・・・・やっと離婚したのか〜。

でも、なんか複雑な気持ちだった。

高校を卒業後、就職することが決まっていた。
進学のことは考えていなかった。勉強大嫌いだし。金もねぇし。

父親が言った。
「お前、働くんだから、もうここに居ることはないだろ?出て行け。」と。

そう。
離婚したのは、まだ高校に通っていた時期だったので、はじめは、母親だけが家を出ていた。
父と妹と私、三人で暮らしていた。

言われなくてもわかってるよ。出て行くから安心して。

そのとき、妹はここ(父親のもと)に残ると言った。

そうして、姉妹別々に過ごすこととなった。





〜準備中〜











・・・・いつか、つづく?(`▽´)






うわさ?の姉妹写真。

妹、デカすぎだろっっっ!?