U ljudej-to |
よそさまは |
U ljudej-to v domu chistota,lepota, a u nas-to v domu tesnota,dukhota. U ljudej-to dlja shchej s soloninkoju chan, a u nas-to vo shchakh tarakan,tarakan! U ljudej kumov'ja rebjatishek darjat, a u nas kumov'ja tvoj zhe khleb prijedjat! U ljudej na ume pogutorit' s kumoj, a u nas na ume,ne pojti by s sumoj? `Ekh! Kak-by tak nam zazhit',chto-by svet udivit': chto-by den'gi v moshne,chto-by rozh' na gumne; chtob shleja v bubencakh,raspisnaja duga; chtob sukno na plechakh,ne poskon'derjuga; chtob ne khuzhe drugikh nam pochet ot ljudej, pop v gostjakh u bol'shikh,u detej gramotej; chto-by detki v domu,slovno pchjoly v medu, a khozjajka v domu,chto malinka v sadu! |
よそさまは奇麗で立派な家に住むが 俺たちの家は小さくてむさくるしい よそさまの家の鍋は、肉やスープで一杯だが 俺たちの鍋の中には ゴキブリが ゴキブリが! よそさまのじいさんは孫にプレゼントをするが 俺らのじいさんは孫から食い物をふんだくる! よそさまは付き合いのことで頭が一杯だが 俺たちといえば、惨めな思いをしないようにするので精一杯だ、ええい! もしあんな暮らしができたらなあ、まわりが皆羨ましがるような 財布には金がざくざく、納屋はライ麦で一杯 馬具には鈴がじゃらじゃら、がっしりした蹄鉄もある ぼろ布でない立派な服を着られる暮らしが... そうすりゃ金持ちどもからも馬鹿にされないってもんだ 司祭様も家にお招きできるし、ガキどもも字が読める そうすりゃガキどもは蜜の中のミツバチみたいにヌクヌクだし 家の女どもも、庭のキイチゴみたいに別嬪になれるんだが! |
ロシアの虐げられた民衆たちに愛情ある眼差しを向け、かれらの苦しみや悲しみ、そしてささやかな喜びを美しい詩にした詩人ネクラーソフ、日本でも岩波文庫に収められた晩年の長編叙事詩「ロシヤは誰に住みよいか」(谷耕平訳)は版を重ねて今でも読むことができますのでぜひ読んで頂ければと思います。
さてこのネクラーソフの詩、作曲者不明で民謡として伝えられている「行商人」などの歌詞に使われているのはいかにも彼らしいですが、芸術歌曲としてはこの詩のスタイルにもっとも共鳴しそうなムソルグスキーに2曲ある他は、ボロディンのこの曲を含めてもごくわずかしかないようです。この3曲の出来がいずれも素晴らしいだけに非常に残念なところですが、逆にボロディンやムソルグスキーのような音楽スタイルだからこそこの詩が生きた歌になったということもまた言えるわけで、そう思いつつ原詩を紐解きながらじっくりと聴いてみました。
もともとは管弦楽伴奏で作曲されたのだそうで、このスタイルで私が聴くことができたのはブルガリアのバス、ボリス・クリストフがツィピーヌ指揮のラムルー管弦楽団の伴奏で歌ったもの(EMI)。冒頭のロシアの春を思わせるような鳥の声を木管が模するところからボロディン節全開で最高に素敵です。
そして歌が始まると前半部の金持ちと自分たちを比較するところはゆったりした踊りを踊るようなリズム。冒頭の小鳥の声が掛け合いながら飄々と。「tarakan,tarakan! ゴキブリが ゴキブリが」のところなど低音でリタルダンドしていて笑ってしまうようなユーモアです。ボロディンもこの曲をしばしば「ゴキブリ」と呼んでいたのだそうですが、一度聴いて見られればその理由はよく分かります。そして「ええい」と叫んでからは快速に夢の暮らしをまくし立てますが、ここの躍動感も飛び跳ねるような弦のピチカートと競争するような声が実に楽しい。最後は見果てぬ憧れを再びゆったりと歌いますが、ここの美しい弦の伴奏も聴きものです。そしてまた最初の小鳥の声が帰ってきて、太鼓の一打とともにあっけなく終わる。実によくできた歌と伴奏です。そして見事なクリストフの歌。
作曲者の死後に他人によって編曲されたと言われるピアノ伴奏版では、ボロディン歌曲全集(Delos)でのスラヴニィのバリトン、若手の人でしょうか。端正に歌っていますがその分にじみ出るシニカルな諧謔味は弱まったように思います。もう1枚、ひとりで16曲を歌っているバスのグロウボキィのもの(Chant du Monde)の方が、茫洋としたユーモアがにじみ出ていて私には面白かったです。初演はアルト歌手だったのだそうですが女性が歌うとどんな感じなんでしょうかね。
なお、ここでいう「よそさま」というのは、厳密に訳すと「あそこに住んでいるやつらは」といったような意味なようなのですが、階級社会だった当時のロシア、おそらくここでいう相手は遊んで豊かな暮らしをしている貴族階級のことでしょう。ただそれをあからさまに言えないから「あそこに住むやつら」としているのだと思います。詞もメロディーもユーモラスなのでなかなか気が付きにくいですが、そんな理不尽な社会の中で虐げられた人々の笑い声がこうして150年以上たっても我々の心に響いてくるのは興味深いことでもあります。ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービィ・ヤール」の第2楽章でも、そんなことを歌った「ユーモア」という印象的なエフトシェンコの詩がありましたが、ロシアの民衆(と詩人たち)の凄さに感じ入ってしまいました。恐怖と貧困の中でもユーモアを忘れない、いやそんな境遇だからこそそうなのでしょうか...
( 2005.01.21 藤井宏行 )