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相手の呼び方が物凄くたくさんある日本語でも、あるいは実質的にyouしかないともいえる英語でもこの詩はなかなかうまく訳せません。いくつか調べた既訳の英語でも日本語でも皆大変な苦心のあとが見えますがやはりうまく行っていないように思いました。だから私のもうまく行っていませんという言い訳はともかくとして、フランス語を齧られたことのある方はご存知だと思いますが、あの言葉にはあまり親密ではない人に対して使う”Vous”と、非常に親しい間の人に対して使われる”Tu”が厳然と使い分けられています。ロシア語でも同じように”Vy”と”Ty”を使い分けているようなのですが、この詩にはこの使い分けが非常に重要な意味を持っているのです（いくつかの英訳ではそこでフランス語の”Vous”と”Tu”を苦肉の策で使っています）、日本語ではさすがにどうしようもありません。こちらも苦し紛れにか「貴方」と「あなた」という訳をしてるのがありましたけれども．．．
原詩を見て頂くとおわかりのように、よそよそしい「あなた」はVy、心のこもった「あなた」はTyです。そして第２節で言葉にしている「素敵なあなた」に使われているのはVyですが、心の中で「お前を愛してるよ」と呟くときはTyと呼んでいます。そのあたりの心の機微は、何気ない会話の中の呼びかけがふとある瞬間に恋の予感を感じさせる、今の世でも変わらない人間の真実を捉えているというところでしょうか。まさに恋多き詩人・プーシキンの面目躍如といったところです。

さて、この詩にメロディをつけたツェザール・キュイは、父がフランス人だったこともあってかロシア国民学派というものに分類されながらもあまりロシアらしくない音楽を書いていた人のように思えます。歌曲もシューマネスクな雰囲気が濃厚で、それがこんな詩に付けた曲では大変魅力的です。この曲などもショパンのノクターンに歌詞を付けて歌っているような曲想で、上質のサロンミュージックのような味わいがなんともいえません。
今回ロシア歌曲を探訪していく中でも、ボロディナのロシア５人組の歌曲を収録した「ロシアン・ロマンスの調べ」、あるいは知られざるロシア佳曲を紹介してくれているゴルチャコーワの録音と２種類（複数の録音が聴ければロシア歌曲では大変画期的なことなのです）、それにメゾソプラノ、シャロノヴァの入れたRussian Disc盤でのキュイ歌曲集といったところが見つかりました。で、もし機会があれば他のキュイの曲もたくさん聴くことができるボロディナのものか、あるいは今や入手は厳しいかも知れませんがシャロノヴァのものをぜひ聴かれることをお薦めします。
東欧の「周縁」地域からフランス文化と融合し、とてつもなくロマンティックな音楽を書いた２人の巨人、フランツ・リストとフレデリック・ショパン、彼らと同じくらいトロトロのロマンティシズムを描き出した人としてこのセザール・キュイは再評価されてもいいんではないかなあ、と魅力的な歌の数々を聴いていて本当に思います。確かに「ロシア音楽」としては異質かも知れませんけれども。
その意味では、ドイツ語やフランス語に訳して歌われることがもっと増えればいいのかも知れません。キュイにはフランス語の詩につけた歌曲などもあるようなので、こんなあたりをフランス歌曲を歌われる方がもっと取り上げて下されば大変嬉しいです。

( 2006.01.14 藤井宏行 ）