Der Glücksritter Gedichite von Eichendorff für eine Singstime und Klavier |
運まかせの騎士 アイヒェンドルフ歌曲集 |
Wenn Fortuna spröde tut, laß' ich sie in Ruh', singe recht und trinke gut, und Fortuna kriegt auch Mut, setzt sich mit dazu. Doch ich geb' mir keine Müh': “He,noch eine her!” kehr' den Rücken gegen sie, laß' hoch leben die und die das verdrießt sie sehr. Und bald rückt sie sacht zumir: “Hast du deren mehr?” “Wie Sie seh'n,drei Kannen schier, und das lauter Klebebier! 's wird mir gar nicht schwer.” Drauf sie zu mir lächelt fein: “Bist ein ganzer Kerl!” ruft den Kellner,schreit nach Wein, trinkt mir zu und schenkt mir ein, echte Blum' und Perl'. Sie bezahlet Wein und Bier, und ich,wieder gut, führe sie am Arm mit mir aus dem Haus wie'n Kavalier, alles zieht den Hut. |
フォルトゥーナがつれない時は 放っておくのが一番さ 陽気に歌い愉しく飲んでいれば フォルトゥーナは気を取り直し 俺様の隣にやって来て座る だが俺様はかまってなんかやらない: 「おーい、もう一杯!」 彼女に背を向けたまま あっちこっちの女と乾杯し 彼女はすっかり腹を立てる すぐに彼女はそっと身を寄せる: 「まだ飲む気なの?」 「ご覧の通り、ビールをほとんど三樽飲んで 更に黒ビールというわけだ! それでも全然酔わないぜ。」 すると彼女は優しく微笑む: 「あなたって男らしいのね!」 給仕を呼んでワインを頼み 俺様と飲んで酌をしてくれる 香りのいい泡立つやつを ビールとワインの勘定は彼女が済ませ 俺様はすっかりご機嫌となり フォルトゥーナと手に手をとって しずしずと酒場から御退出 一同うやうやしく帽子を脱ぐという次第 |
「かのシュレッケンベルガー殿」を含む小説”Die Glücksritter”『運任せの騎士たち』とほとんど同じタイトルの詩ですが、これはその三年前に書かれた独立の詩で、小説中にこの詩は出てきません。しかしフォルトゥーナの名といい、幸運の女神は放っておけば向こうからやってくるという内容といい、シュレッケンベルガーの歌と非常に良く似ています。小説と何らかの関連があると考えるのが自然でしょう。
この詩もタイトルの訳が難しいです。”Der Glücksritter”は直訳すると「幸運な騎士」ですが、現代の辞書では「冒険家」「運任せの無責任な人」「一攫千金を夢見る人」となっています。本当の騎士などいない現代において死語の「幸運な騎士」は隠喩として生きているのでしょう。しかし小説は三十年戦争終結時、騎士の全盛時代は過ぎているにしても17世紀の物語で、やたらと運のいい主人公が騎士と名乗ったりすることから文字通りの意味合いが強いと思います。一方こちらの詩には騎士の時代であるような話は無く、単に19世紀の能天気男の歌のようでもありますが、何故フォルトゥーナなのかいまひとつピンと来ないものがあります。
そこで一般に「幸運の女神」とされているフォルトゥーナについて調べてみると面白いことがわかりました。フォルトゥーナはもともとローマ神話の運命の女神でした。それが民衆の間で俗化して幸運の女神となったのですが、一般的な幸運というより賭博のツキの女神なのです。そうなると「運任せの無責任な人」「一攫千金を夢見る人」がフォルトゥーナにこだわることに納得がいくように思います。ちゃらんぽらんな博打好きが、賭け事の運についてとぼけた持論を開陳しているという訳です。
しかしどうも「運任せの無責任な人」を一言で言い表す良い語が思いつかず、「賭博師」「ばくち打ち」も意訳に過ぎるように思われたので、騎士の時代へのノスタルジーで知られるアイヒェンドルフの詩でもあることから、騎士の語は生かすことにして「運任せの騎士」にしました。
ヴォルフの曲は豪快な「かのシュレッケンベルガー殿」に較べやや軽快な楽しいものになっています。こうしたとぼけた歌になるとヘルマン・プライの右に出るものはありません。まるでプライのために書かれたような詩であり歌であるとさえ思えます。
( 2005.08.25 甲斐貴也 )