敵は幾万 |
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敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ 烏合の勢にあらずとも 味方に正しき道理あり 邪はそれ正に勝難く 直は曲にぞ勝栗の 堅き心の一徹は 石に矢の立つ例(ためし)あり 石に立つ矢の例あり などて怖るる事やある などてたゆたふ事やある 風にひらめく連隊旗 記紋(しるし)は昇る旭(あさひこ)よ 旗は飛び来る弾丸に やぶるる程こそ誉なれ 身は日本(ひのもと)の兵士(つわもの)よ 旗にな恥じそ進めよや 斃るるまでも進めよや 裂かるるまでも進めよや 旗にな恥じそ恥じなせそ ななどて怖るる事やある などてたゆたふ事やある 敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべきみちならず 躯(むくろ)を馬蹄にかけられつ 身を野晒しになしてこそ 世に武士(もののふ)の義といわめ などて恐るる事やある などてたゆとう事やある |
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山田美妙といえば、明治の言文一致運動の推進者として二葉亭四迷と共に名前だけは国語の教科書などで見たことがありますが、その作品に触れることはまずほとんどないのではないでしょうか。私もないです。
そんな彼はまた、当時漢詩や和歌から脱した新しい日本の詩を作ろうという「新体詩」の運動にも関わっており、そんな中で作った「戦景大和魂」という8節の詩から、1・3・8節を作曲家の小山作之助(「夏は来ぬ」の作曲で有名)が取り出して曲を付けたのがこの「敵は幾万」です。
詩はご覧頂いたように歌にするにしてはなんともたどたどしく、またメロディも小山作之助にしてはあまり良い出来とも思えないのですが(ひとつの節が長すぎて、曲全体の締まりにちょっと欠けるような印象がします)、まあ日本最古期の軍歌のひとつだと思えばあまりグダグダ言うのも申し訳ないのでおとなしく取り上げることにしましょう。
この曲で面白いのは、8月のこの時期に毎年TVでは耳にタコができるほど流れていることです。それは決して祖先の英霊に捧げるなんていう殊勝な心がけからではなくて、「かっとばせー○○、××倒せー おう!」という掛け声と一緒にブラスバンドで...
この曲の一節「邪はそれ正に勝ちがたく」のところがNHKの高校野球中継で、比較的歴史が古い出場校のスタンドに陣取る応援団のブラスバンドからいやというほど流されるのが放映されているのです。調べてみると明治38年ころ、早稲田の学生がこの歌の替歌「敵塁如何に」を作って歌ったのが全国に広まり、今でも古い学校ではそれが伝統的な応援歌として残っているということのようです。このワンフレーズだけではありますが、もはや真夏の定番音楽となってしまったかの感もあります。
学校関係で軍歌や戦時歌謡が元が知られずに広く歌われているものといえば、あとは「今日のお酒が飲めるのは ××さんのおかげですー」と一気飲みの囃子唄に使われている「兵隊さんのおかげです」(佐々木すぐる作曲)くらいでしょうか。←学校関係なのか?
元が忘れられても、元とは全く違った形であれメロディや詞のワンフレーズだけは生き残る。作者が誰だったかさえも忘れられて。シャルル・トレネの作った名作シャンソン「詩人の魂」の一節じゃないですが、ある意味作曲家冥利に尽きることではないか、という気もします。今のように著作権でがちがちに縛っている世界ではもはやあり得ない(著作権の切れる50年後には多くのものは忘れ去られて取り上げる人すらいなくなっている)であろうことを思えば、こんな制度が十分に機能していなかったこの時代のダイナミズムはもっと学ぶ価値はあるでしょう。
日本の音楽自体が、学校唱歌を筆頭にして替歌に替歌を重ねて発展してきた側面というものを今の著作権制度はすっかり忘れているような気がします。もちろん創作者の権利を守り、創作活動を盛んにするという著作権制度をないがしろにするつもりは全くありません。このサイトでもずいぶん気を使っているつもりです。
それでもやっぱり理不尽だな、と思うことはたくさんあります。特に一部の「商売になる」過去の作品の権利を守るために、そうではないあまたの作品を封印してしまうという副作用が。
( 2005.08.12 藤井宏行 )