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雪の進軍    
 
 
    

詩: 永井建子 (Nagai Kenshi,1865-1940) 日本
      

曲: 永井建子 (Nagai Kenshi,1865-1940) 日本   歌詞言語: 日本語


雪の進軍氷をふんで どれが河やら道さえ知れず
馬は斃れる捨ててもおけず 此処は何処(いずこ)ぞ皆敵の国
ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が二本

焼かぬ干物に半煮え飯に なまじ生命(いのち)のあるそのうちは
こらえ切れない寒さの焚火 けむいはずだよ生木が燻る
渋い顔して功名談(ばなし) すいというのは梅干一つ

着の身着のまま気楽な臥所(ふしど) 背嚢枕に外套かぶりゃ
背(せな)の温みで雪解けかかる 夜具の黍殻しっぽり濡れて
結びかねたる露営の夢を 月は冷たく顔覗きこむ

命捧げて出てきた身ゆえ 死ぬる覚悟で吶喊(とっかん)すれど
武運拙(つたな)く討ち死にせねば 義理にからめた恤兵(じゅっぺい)真綿
そろりそろりと首締めかかる どうせ生かして還さぬつもり



思い切り季節外れですが、日本の軍歌の歴史を紐解く上ではこの歌は絶対に外せないと思うので取り上げてみましょう。
時は日清戦争、山東半島に進撃した日本軍に従軍していた軍楽隊の永井建子(けんし)は、そこでの体験をこんな歌にしました。
当時の陸軍大将・大山厳もこの歌を愛していたといいますが、歌詞をよくよく見ると物凄いことを歌っているではないですか!
およそ戦意高揚を考えているとは思えないような悲惨な体験を赤裸々に描いています。嗜好品のタバコの支給も少ないしメシはまずいし夜は寒いし...
話題といえば無粋な昔の手柄話しかない(「すい」というのは「粋」と「酸い」をかけています)
こんな歌を軍楽隊のメンバーが作って、しかもそれを軍のトップが好んで聴いていた、というのはなんだか信じがたいものがあります。

何よりも凄いと思うのは4番の歌詞です。意味ちゃんとお分かりですか?「武運つたなく死んでしまう」んじゃないんです。
「武運つたなく生き残ってしまう」んです。結果「おめおめと生き残って」という有言無言のプレッシャーがそろりそろりと...
真綿で首を絞めるように圧力をかけてきます。最後の「どうせ生かして還さぬつもり」はあまりに率直すぎたので、やがて「どうせ生きては還らぬつもり」と変えて歌わされたといいますが、それでもまだ凄いことに変わりはありません。さすがに第二次世界大戦の頃は歌自体が厭戦的ということで禁止されたということです。

こんな感じのそろりそろりと首締めかかるメンタリティ、多くの日本人はいまだにしつこく持ってしまっていますよね。つい先日のJRの事故でも事故の当日にボーリング大会&懇親会を行ったJRの社員や、現場に居合わせて救助を行わず出勤して勤務についた運転手のことを際限なくつるし上げたマスコミや、事故後に乗り合わせた電車の乗務員に罵倒やら暴行やらで嫌がらせをした困った乗客の姿なんかはまさにこの歌で首締めかかる真綿と全く同じ発想の行動。また今でもオリンピックの度に外野が「メダルメダル」と騒ぎまわるのもこの恤兵真綿。全く変わってません...
いいかげんこういうのから脱却しないと、また世の中が変な方向に流れたときに「名誉の討死をしないやつは非国民だ!」というように極端に走ってしまうのではないかと本当に危惧してしまいます。自分の嗜好を正義だと思ってエスカレートするのが余計にタチが悪い...

作詞・作曲の永井建子は、日清戦争のころに書いた「四百余州をこぞる 十万余騎の敵」と非常に豪快に歌われる「元寇」の作者として知られた人です。この曲も歴史唱歌としてなかなか素晴らしい出来だと思いますが、やはりメッセージ性といい音楽といい、私にはこちらの歌の方がよくできた歌だと思います。

この「雪の進軍」、明治30年の有名な「八甲田山死の彷徨」を映画化したときに、雪中を行進する兵士たちが歌ってとても印象的でした。
辛くも帰還できたごくわずかな数の兵士たちも、日露戦争では非常に戦闘が激しいところに送られてそのほとんどが生きては還らなかったといいます。

こんなに悲惨な情景を歌っているのに、メロディはまるで「丘を越えて行こうよ」みたいに軽快で明るいのが何とも悲しいです。
私は個人的には日本の軍歌の最高傑作だと思っています。
(そして作者には不本意かも知れませんが、同時に私にとっては厭戦歌の、反戦歌の最高傑作でもあります)

( 2005.07.21 藤井宏行 )


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