Von der Jugend (Der Pavillon aus Porzellan) Das Lied von der Erde |
第3曲『若さについて』(ピアノ版:「磁器の四阿」) 交響曲「大地の歌」 |
Mitten in dem kleinen Teiche steht ein Pavillon aus grünem und aus weißem Porzellan. Wie der Rücken eines Tigers wölbt die Brücke sich aus Jade zu dem Pavillon hinüber. In dem Häuschen sitzen Freunde, schön gekleidet,trinken,plaudern, manche schreiben Verse nieder. Ihre seidnen Ärmel gleiten rückwärts,ihre seidnen Mützen hocken lustig tief im Nacken. Auf des kleinen,kleinen Teiches stiller,stiller Wasserfläche zeigt sich alles wunderlich im Spiegelbilde. Alles auf dem Kopfe stehend in dem Pavillon aus grünem und aus weißem Porzellan; Wie ein Halbmond scheint die Brücke, umgekehrt der Bogen. Freunde, schön gekleidet,trinken,plaudern. |
小さな池の中に 緑と白の 磁器の四阿(あずまや)がある そこに虎の背のように反った 翡翠で出来た橋が 架かっている 小さな家の中には友たちが坐り 美しく装い、杯をあげ、談笑し 詩句を書く者もいる 彼らは絹の袖を引きずり 絹の帽子を無造作に 蓮に被っている 小さな小さな池の静かな静かな水面には 全てが鏡像となって 不思議な景色となる 緑と白の 磁器の四阿では 全てが逆さまに見える 弓形にしなった橋が 半月のように輝き、友たちは 美しく装い、酒を飲み、談笑している |
近年この詩の原詩は李白の「宴陶家亭子」であるとされ、普通「陶器の四阿」と訳されている”Der Pavillon aus Porzellan ”は、最初に仏語訳したゴーティエが中国語の「陶さんの家の四阿」の「陶」を人名ではなく陶器のことと誤訳したものであるという話が多くの解説書に書かれています。しかし「翡翠の橋」も「友人たち」も出てこないばかりか、詩の内容も異なる(隠棲している友人陶氏の邸宅の美しさを称賛し、そこで音楽を聴くことが出来れば素晴らしいだろう・・・というもの)「宴陶家亭子」をこの詩の原詩とするのはかなり無理があるように思います。
むしろ、ゴーティエが中国の美術工芸品あるいは絵などを見た印象から創作した模作であるという、「宴陶家亭子」説以前の定説により説得力があるような気がします。「陶器の四阿」など現実に有り得ないと言うなら、「翡翠で出来た橋」も現実の庭園にはまず無いでしょう(ダイヤモンド並みの硬度の本当の翡翠ではなく、柔らかい玉石なのかもしれませんが)。しかしこの情景が例えば箱庭のような工芸品のものだとすれば何の不思議もありません。この詩の原詩を特定するためには、ゴーティエの周辺にこの詩に関連するような工芸品や絵を探す努力もあっていいと思います。
わたしの訳では「陶器」を採用せず「磁器」にしました。比較的低い温度で焼くどちらかという素朴な土の感触の残る陶器よりも、高温で焼成された繊細な透明感のある磁器の方がこの詩の四阿にはふさわしいと思うのです。また、当時のヨーロッパでは中国の陶磁器と言えば磁器のことであったはずで、手持ちの辞書でPorzellanを調べても磁器が訳語になっています(陶器はKeramik)。「陶家=陶器の四阿」説の根拠は、当時のヨーロッパでは陶器も磁器も明確に区別されていなかったということでしょうか。以上素人考えですので、誤りがありましたらご指摘頂ければ幸いです。
なお原語最終節1行目の”scheint”はマーラーが管弦楽版を作るときに”steht”に変更したことになっていますが、音楽之友社発行のミニチュアスコアは何故かピアノ版と同じく”scheint”になっています。耳にした演奏はほとんんど”steht”ですので、演奏用の出版譜はそうなっているのかもしれません。
さて余談が長くなってしまいました。浮世離れした庭園の美しい情景を詠ったこの詩には、五音階の明るい音楽がつけられています。マーラーが「磁器の四阿」を「若さについて」に変更したのは、浮世のはかなさを表現したのだという示唆だとすれば余計なことにも思えます。音楽もいささか能天気でもありやや俗っぽくもありますが、深刻な前2曲の後の口直しのようでもあり、曇りのない明るさが浮世のはかなさを感じさせますね。演奏は夢のように美しいコロ独唱カラヤン指揮ベルリン・フィル(グラモフォン)、ヴンダーリヒの甘美なテノールの楽しめるクレンペラー盤(EMI)など。
(2004.10.31 甲斐貴也)
浜尾房子氏の論考について
その後、音楽芸術1989年11月号掲載の浜尾房子氏による『特別寄稿 マーラーの「大地の歌」「陶器の亭」』を、東京都立中央図書館で閲覧することが出来ました。
この記事は浜尾氏による英語論文”The Origin of the Texts in Mahler's Das Lied von der Erde” が話題を呼んだことから音楽芸術誌に寄稿されたもののようです。音楽学者の手になるものだけに、パリ国立図書館のオリエンタル・コレクションに出向いてゴーティエの使用したと思われる文献の調査を行うなど実証的で、ほとんど国内の文献のみに頼っているわたしなどは大いに敬意を払いたいと思います。
しかしこの記事を読んで、そこで「陶器の亭」の「原詩」が李白「宴陶家亭子」であると断言されているのには非常に無理があると思いました。なぜなら浜尾氏の論というのは、ゴーティエは李白の「宴陶家亭子」〔陶家の亭子に宴す=陶氏宅の四阿(あずまや)での宴〕の題名を「陶器の四阿(あずまや)での宴」と誤読し、そのイメージから全く新しい詩を作り上げ、本文からは第三行目の水面=鏡のモティーフだけを流用したというものなのです。問題の二つの詩を何度読んでも共通すると言えなくもないのはそれだけで、事実上全く異なる内容の詩ですが、浜尾氏の論考にも両者の新たな共通点は提示されていませんでした。
そこではわたしが疑問に思った「翡翠の橋」(李白には無いがゴーティエには二度も現れる)が「陶器の亭」と同じくらい不自然であることには一切言及が無く、同じく「宴陶家亭子」に出てこない「着飾った友人たち」については、帽子の被り具合や袖の様子など具体的描写もあるにもかかわらず、『おそらくゴティエは題に含まれている「宴」という言葉から「着飾った友人達」を連想したのだろう。』(同記事)と片付けています。
仮に「陶器の亭」が「宴陶家亭子」の題名をヒントにして創作されたのが事実だとしても、その程度のことでそれを「原詩」と言うことが出来るでしょうか。浜尾氏が使われている「原詩」という語の定義は、一般的な「翻訳または改作の、もとになった詩」(広辞苑)よりもはるかに広義の「ネタ」「ヒント」程度のものなのでしょうか。
「陶器の亭」(実際には「磁器の亭」ですが)を「宴陶家亭子」の誤訳と断定し、ゴーティエの『中国語翻訳能力の未熟』『「大地の歌」に関する最大のジョーク』(浜尾氏)と笑う前に、ゴーティエが訳した「原詩」がパリ国立図書館所蔵の中国詩集のみを元にしたとする仮定に果たして誤りは無いのかどうか、またゴーティエの創作とした場合その原詩もとい「元ネタ」が絵画や工芸品などである可能性の検討も必要ではないでしょうか。
わたしの結論としては、浜尾氏の論証を読んだ上でも現時点で『「陶器の亭」の原詩は不明、ゴーティエによる創作の可能性あり』が妥当な判断と思いました。いずれにしろ「大地の歌」の詩に関心を持たれる方には必読の論考と思いますので、興味のある方は是非ともご一読をお薦めします。
( 2004.12.05 甲斐貴也 )