レモン哀歌 智恵子抄 |
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そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ わたしの手を握るあなたの力の健康さよ あなたの咽喉に嵐はあるが かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた 写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう |
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別宮貞雄の書いた歌曲集「智恵子抄」、最後の曲はやはりこの詩、智恵子が今際の別れを告げる美しくも哀しい情景です。死の床にある智恵子が求めたレモン、このしずく数滴が彼女の朦朧とした意識を一瞬はっきりさせたのでしょうか。ほんの一瞬だけもとの元気な姿に戻って、そして最後の別れを告げて死んでいってしまいました。その一瞬の甦りのところに別宮もこの上もない美しいメロディを当てて、この詩をまるでオペラの終幕のアリアのように仕立てています。その前後のシーンに極めて淡彩の、語りのような音楽をつけているだけに、その一瞬のきらめきがひときわ映えるのです。
彼女が亡くなったのは昭和13年10月5日とのことですが、この詩の日付は昭和14年2月となっています。詩の最後の2行にあるように彼女の遺影の前に置かれたレモンを前に、まさに彼女の死の瞬間を今日もまた思い出しているのでしょうか。詩集では前の曲に取り上げられた「山麓の二人」からひとつ置いた32番目の詩になります。
( 2012.03.29 藤井宏行 )