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Im Dorfe   Op.89-17 D 911  
  Winterreise
村で  
     冬の旅

詩: ミュラー,ヴィルヘルム (Johann Ludwig Wilhelm Müller,1794-1827) ドイツ
    Die Winterreise 13 Im Dorfe

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア   歌詞言語: ドイツ語


Es bellen die Hunde,es rasseln die Ketten,
Es schlafen die Menschen in ihren Betten,
Träumen sich manches,was sie nicht haben,
Tun sich im Guten und Argen erlaben,
Und morgen früh ist alles zerflossen.
Je nun,sie haben ihr Teil genossen,
Und hoffen,was sie noch übrig ließen,
Doch wieder zu finden auf ihren Kissen.

Bellt mich nur fort,ihr wachen Hunde,
Laßt mich nicht ruhn in der Schlummerstunde!
Ich bin zu Ende mit allen Träumen,
Was will ich unter den Schläfern säumen?

吠える犬たち、がちゃがちゃ鳴る鎖
各々(おのおの)の寝床で眠る人々
叶わぬものをいくつも夢みて
良かれ悪しかれ元気を取戻す
そして朝には全て融けて流れてしまっている
いいじゃないか、分相応に楽しんだのだから
そして願うのだ、手の届かぬものは
ともかくもまた枕の上で見られるようにと

吠えて僕を追い払ってくれ、目覚めている犬たちよ
微睡(まどろみ)の時に僕をとどまらせないでくれ!
僕は全ての夢を見尽くしてしまった
寝入った連中の所でぐずぐずしていられるものか


『冬の旅』の詩の中でも、社会批判の要素が前面に出ている問題作です。小市民的な人々の暮らしに、若者は何故このように辛らつなのでしょうか。失恋の悲しみからの八つ当たりというのではあまりに軽薄ですが、そうではなく、この詩には当時の社会状況とミュラー自身の体験が反映されていると言えます。

ドイツではナポレオン戦争のことを解放戦争と呼びます。フランス革命の理想をヨーロッパで普遍化すべく侵略を始めたナポレオンによる、1806年のベルリン占領以後1813年まで、後に統一ドイツの中心となったプロイセンはフランスに隷属し、領土の半分を奪われ、巨額の賠償金を課され、数々の制度の強制を受ける屈辱的状況にあったからです。かつて無敵を誇ったプロイセン軍が、ナポレオン率いるフランス軍になすすべなく敗退した原因は、封建君主時代からの傭兵と強制徴集による少数精鋭のプロイセン軍に対して、解放農奴の徴兵を主力とし、フランス革命の理想とナショナリズムに酔ったフランスの国民軍が、数十万もの空前の動員力と高い士気を誇ったからです。この新時代の画期的な軍隊はさらに、傭兵のように給金の高い方に寝返ることがないのでコストが低く、強制徴発の兵が常に狙う脱走の心配も少ないという、権力にとって誠に好都合の軍隊だったのです。

プロイセンはフランス国民軍に対抗するため、敗戦後軍制の改革とナショナリズムの醸成を図る教育改革を進めました。その流れの中で1810年に創設されたベルリン大学の学長となった哲学者フィヒテは、ナポレオン支配下での危険を顧みず、有名な連続講演『ドイツ国民に告ぐ!』で「ひとつの国民、ひとつの民族、ひとつの国家」であるところの「自由で強力な統一ドイツ」を命をかけて訴えかけました。「十九世紀初頭のプロイセンにあって、ナポレオンの支配に対する屈辱と憎悪をバネに「ドイツ国民意識」を喚起しようとした一群の知識人・官僚が存在した」(『国民国家とナショナリズム』)。そして1812年のナポレオンのロシア遠征に出兵を強いられたプロイセンは、その大敗に乗じてロシアと単独で講和、1813年3月プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、国民に「自由のための戦い」を呼びかけて国民皆兵令を宣言、フランスに宣戦布告しました。

そのベルリン大学に初めての平民の大学生の一人として入学し、在学中に「解放戦争」に義勇兵(装備を自費で整えて参加する兵士)として参戦し、戦功により平民ではじめての将校の一人となったのが誰あろう、若き日のヴィルヘルム・ミュラーなのです。

そして1813年5月、名高い激戦「バウツェンの戦い」で11万のプロイセン・ロシア連合軍は、倍近い20万のナポレオン軍の攻撃を受け、約1万2千の戦死者を出して撤退するという敗け戦さながらも、ナポレオン軍に約2万の損害を与えて追撃を振り切るという消耗戦を成功させましたが、この激戦に加わったミュラーは、自らは生き残ったものの、眼前で幼馴染の戦友を失うという悲劇に見舞われました(註)。

その後の一時休戦の間にスウェーデン、オーストリアを味方に付けて戦力を増強したプロイセン連合軍は、名高いプロイセン参謀本部の軍略により粘り強い消耗戦を仕掛け続け、一見敗北の連続に見えながらナポレオン軍の戦力を斬減し、1813年秋、ライプツィヒにおける歴史的「諸国民の戦い」でついにナポレオン軍を数的優位で包囲圧倒、敗走するナポレオンを追撃して翌年にはパリ占領、ナポレオンを政権から引きずりおろして完全勝利を得ます。そしてその戦後処理を決めたのが「会議は踊る」の名言で有名な「ウィーン会議」です。その結果は「ウィーン体制」と呼ばれる反動政策、つまり、ナポレオン戦争以前の特権階級の既得権益の復活と保護であって、プロイセンでも開放政策は後退し、自由主義運動の弾圧と思想統制が始まります。それに対して、大方の市民は表立った抵抗もせずに従い、内にこもった小市民的自己満足の文化を生み出します。これが「ビーダーマイヤー」と呼ばれる時代です。

ナショナリズムを煽り立て、自由・独立と言う美名により若者を死地に駆り立てて、目的を達すると手のひらを返すように自由主義運動を弾圧した、国家による国民への裏切り行為と、それを諦めて受け入れてしまう不甲斐ない国民。両者に対する、解放戦争の勇士ミュラーの怒りと苛立ちは言わずもがなでしょう。

つまり、『冬の旅』の、「恋人の裏切りに苦しむ若者」の物語は、ウィーン体制下の「冬の時代」に「国家の裏切りに苦しむ愛国青年」の苦悩の隠喩でもあり、「村で」は不甲斐ない市民社会への批判でもあると読めるわけです。別項で、この物語は解放戦争当時のミュラーの失恋の実体験に基づくものと言う話をしましたが、恋人の裏切りに苦しんで、極寒の中をさまよう若者の身分が明かされないのは、それが解放戦争の象徴である学生義勇兵(現ドイツの国旗の赤、黒、金の三色はその制服の色に由来するとされています)であることを、検閲対策上隠すためであり、その代りに適当な職業・身分を設定しなかったのは、この隠された身分がこの物語において重要なものだからではないかと、わたしは推測しています。

この曲に対するシューベルトの作曲もまた、「いいじゃないか、分相応に楽しんだのだから そして願うのだ、手の届かぬものは ともかくもまた枕の上で見られるようにと」のところに、当時流行のパイジェッロのオペラのアリアを引用し、辛らつな効果を上げていることが近年知られています。ウィーン体制下、ベルリンよりもさらに検閲の厳しかったというウィーンに暮らしたシューベルトも、この詩のメッセージを的確に読み取っていたようです。シューベルトは当時のそうした状況を嘆く「国民に嘆く!」という自作の詩を、友人ショーバー宛の手紙に記しており、これは後日拙訳を追記するつもりです。

鎖の音とも、犬の吠え声とも言われる奇妙なピアノ伴奏ですが、わたしにはどちらかというと鎖の音に聞えます。例によって重箱の隅をつつく話ですが、この詩に現れる犬の種類は何だろうとふと思い、愛犬家でもあるミュラー、シューベルト研究家の渡辺美奈子さんに伺ってみたところ、1800年ごろにつくられたベルギー・シェパードかもしれないとのことでした。心優しい渡辺さんは、寒空の下で鎖につながれたワンちゃんたちが可哀想とも仰っていました。なるほどその視点から見ると、主人公と同じ寒さの中、鎖で自由を奪われ、主人公と同じく「目覚めている」犬たちは、ぬくぬくと惰眠を貪る人々の側ではなく、むしろ若者の同志なのかもしれません。前記の様な隠喩から簡単に思いつくような、当局の手先の象徴ではない、あるいはそれだけではないのかもしれないと思いました。確かに、この詩と音楽から、主人公の犬への敵意はわたしにはあまり感じられないのです。シューベルト好きの方なら、彼がその詩に多く作曲した友人で、役人として心ならずも検閲の仕事に携わり、後に自殺したマイアーホーファーのことも思い出されることでしょう。

余談ですが、「ナショナリズムに駆り立てられて地獄の戦場に身を投じる若者」と『冬の旅』と言えば、トーマス・マンの『魔の山』の最終場面を思い起こす方もおられるのではないでしょうか。その主人公ハンス・カストルプは第一次世界大戦の戦場に赴き、隣にいた兵士が砲弾で粉々に砕け散るという状況の中、『冬の旅』の「リンデンバウム(拙訳では「リンデの樹」)」を口ずさみながら突撃を敢行しますが、目的地点の制圧のため、1000人の戦死を見込んで3000人の兵士を突撃させるという、人間の命が単なる数字と化してしまう非人間的な戦場の描写は、ミュラーのバウツェンでの体験に非常に似ていますし、中世以来専制君主同士のパワーゲームであった戦争が、ナショナリズムに燃える国民同士が憎み合い殺し合う近代的戦争へと変質したのが、フランス革命以後のミュラーの時代であったわけです。

マンは『魔の山』の中で、牧歌的な「リンデンバウム」の郷愁に潜むのは死の世界であるという、いささか突拍子もなく思われる論を展開していますが、その詩の作者ミュラーが第一次大戦の100年前、それまでの最大規模の戦死者を出した「解放戦争」における「もう一人のハンス・カストルプ」であったことを思うと、マンのナショナリズム批判という真意が見えてくるような気もします。前回の「最後の希望」で、『最後の一葉』の作者O.ヘンリーが、ミュラーの詩集・資料集を読んでいた可能性について触れましたが、1914年の第一次世界大戦勃発により『魔の山』執筆を中断、物語を変更して主人公の出征という結末を与えたマンについても、同じ可能性があると言えます。

それにしても、『冬の旅』が単なる失恋物語ではなく、このようにヨーロッパ史の転換点の重要な局面に大きなかかわりがあること、重層的な隠喩に満ちた作品であることは、1月に「おやすみ」に取り掛かったころには思いもよりませんでした。そうした視点への目を啓いてくださった渡辺さんには感謝の言葉もありません。

註):渡辺美奈子さんのご教示によれば、ミュラーにはバウツェンで戦死した同郷の友人ボルネマンを悼み、帰国後に書いた詩「僕の友人 Ludwig Bornemann の墓碑」(1815)がある。「ミュラーが前線で戦った数ヶ月、彼は大切な友を失い、敵と味方の無惨な姿を目にし、自らも常に死と向き合った。ミュラーの詩において繰り返し用いられる「争い」、「血」、「死への恐怖」などのモチーフは、戦いの苦しい体験から生まれたことはいうまでもない」(渡辺美奈子「時代は芸術を支配する―― ヴィルヘルム・ミュラーの詩と生涯」2007)。
※今回のサブタイトルはこの渡辺さんの論からお借りしました。ミュラーの『ローマ、ローマ人 第1巻』導入部からの引用で、原文は「芸術が時代を形作ることはできないが、時代は芸術を支配する。」とのことです。

参考文献:
渡辺美奈子「『冬の旅』の根底にあるもの――ヴィルヘルム・ミュラーのベルリン、ブリュッセル時代――」 『ゲーテ年鑑』第48巻所収 (日本ゲーテ協会)
『国民国家とナショナリズム』谷川稔(山川出版社)
『愉しいビーダーマイヤー』前川道介(国書刊行会)
『ドイツ参謀本部』渡辺昇一(祥伝社)
『フィヒテ』福吉勝男(清水書院)
トーマス・マン『魔の山(下)』関泰祐・望月一恵訳(岩波文庫)

( 2008.07.21 甲斐貴也 )


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