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Letzte Hoffnung   Op.89-16 D 911  
  Winterreise
最後の希望  
     冬の旅

詩: ミュラー,ヴィルヘルム (Johann Ludwig Wilhelm Müller,1794-1827) ドイツ
    Die Winterreise 12 Letzte Hoffnung

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア   歌詞言語: ドイツ語


Hie und da ist an den Bäumen
Manches bunte Blatt zu seh'n,
Und ich bleibe vor den Bäumen
Oftmals in Gedanken steh'n.

Schaue nach dem einen Blatte,
Hänge meine Hoffnung dran;
Spielt der Wind mit meinem Blatte,
Zitt'r' ich,was ich zittern kann.

Ach,und fällt das Blatt zu Boden,
Fällt mit ihm die Hoffnung ab;
Fall' ich selber mit zu Boden,
Wein' auf meiner Hoffnung Grab.

そこかしこの樹に見える
いくつもの色づいた葉
僕は樹々の前に佇み
しばし想いに耽る

その一葉を見つめ
願いを懸ける
風が僕の葉に戯れると
僕も震える、あらん限り

ああ、葉が大地に落ちたら
共に希望も潰えるのだ
僕も大地に身を投げて
我が希望の墓に涙しよう


O.ヘンリー(1862-1910)の有名な短編小説『最後の一葉”The Last Leaf”』(1908)を思わせる詩と、風に揺れる葉を描写する斬新な音楽が印象的な曲。

この詩、わたしは風に翻弄された枯葉が地面に落ちる場面の描写と思い込んでいたのですが、ミュラーとシューベルトの研究者渡辺美奈子さんによる、文法的に見て明らかに葉はまだ落ちていない、という見解( “Noten zur Winterreise” 2008. www.ne.jp/asahi/minako/watanabe/notenzurwinterreise.htm)に眼を啓かれたところです。つまり、第二連のあとにピアノが描写する翻る木の葉は、枝から離れて落ちるところではなく、枝についたまま風に翻弄されているところというわけです。

その中で渡辺さんは『生と死の境にあって震えている葉は、最後に氷の上を裸足でよろめいている「辻音楽師」に通ずるものを感じます』と書かれていますが、確かに、風(ここまでこの曲集で風の果たしてきた役割については最早言うまでもありません)に翻弄される色づいた葉は、運命に翻弄される老人の隠喩としてふさわしいものがあります。

この曲でシューベルトはミュラーの原詩に重要な変更を加えています。ミュラーの詩では「今だ残る一枚の色づいた葉”Noch ein buntes Blatt”」であったものを、「いくつもの色づいた葉」”Manches bunte Blatt”にしているのです。

ミュラーの原詩の第一連:

Hier und da ist an den Bäumen
Noch ein buntes Blatt zu sehn,
Und ich bleibe vor den Bäumen
Oftmals in Gedanken stehn.

そこかしこの樹々の中
色づいた葉がまだひとつ見える
僕は樹々の前に佇み
しばし想いに耽る

つまり元々は冬の木立の中に残された、たった一枚の葉であったものが、いくつもの葉の中のひとつになったため、晩秋を思わせる情景になっています。この曲を作曲したのは1827年10月ですから、シューベルトがウィーンの晩秋に見た美しい情景が投影されているのかもしれませんが、厳しい冬の旅の一場面としてはやや色彩が豊かに過ぎて浮いた印象もあります。

しかしそこに付けられたシューベルトの天才的な音楽は、美しさよりも、次々と無情に散っていく命のような抗い難い無常感を与えます。前奏から第一連にかけてのピアノの下降音型は次々と落ちる木の葉。第二連で選んだ一葉が風に翻弄される様は緊張感の極みです。第三連での希望の喪失の予感の痛みと、今だ残る一葉への祈り。

何故主人公はわざわざ落ちるに決まっている枯葉に願いを懸けるのでしょうか。その葉は近い将来必ず落ちる、最早「死に体」であることがわからないわけはありません。これは落ちるか落ちないかの二択による子供っぽい恋占いなどでは決してなく、娘に自分の元に戻ってきてほしいという希望を痛切に抱きながらも、それは最早100%あり得ないことも痛いほど知っている、しかしその現実を受け入れることが出来ない二重心理の表現とわたしは読みました。彼がそれを受け入れる境地に達するまでには、まだ今しばらくの心の旅が必要なのです。

さて、ミュラーの原詩では残された最後の一枚の葉でしたが、それが落ちる場面がないことも含め、ますます『最後の一葉』に酷似することになるのが興味深いところです。四方田千尋氏は著書『シューベルト 歌曲の森』(嬰風舎)で、「この異様な変ホ短調の作品と、O.ヘンリーの短編『最期の一葉』とが、趣向も題名も似通っているのは偶然なのか?『春の夢』での’ガラス窓に描かれた木の葉’とセットで考え出されたようにも思えるが」(125頁)と指摘されていますが、年代から見てヘンリーが『冬の旅』を知っていたことは十分考えられますし、かつては名声の高かったミュラーの詩集を目にした可能性もゼロではないと思います。

そう思って例によって渡辺美奈子さんに伺ってみたところ、早速”Noten zur Winterreise”に一文を書いてくださいました。それによると、なんと『最後の一葉』成立の前年にアメリカでミュラー詩集が出版されているとのことで、これは非常に有力な状況証拠になるでしょう。これ以上の追求はわたしの手に余りますが、その方面の専門家には調べてみる価値のある問題ではないでしょうか。

なお、詩の中では明示されていない「樹々」の種類ですが、リンデだったらそう書くでしょうから、リンデ以外の木ということでしょう。ドイツの落葉樹では他にミズナラ、ブナ、ポプラ、トネリコ、カンバ、ハンノキ、カエデ、カスターニエなどがありますが、中世以後にドイツの広葉樹林は乱伐により消滅が進んでいたことから、主人公が旅していたと思われる街道の付近に広葉樹の自然林があったというのは、必ずしも当たり前のことではありません。するとナポレオンが好み、征服した街道沿いに植えさせたというポプラは可能性が高いかもしれません。そこはまさにナポレオンが進軍し、征服した土地だったのですから。

参考文献:
「木々を渡る風」小塩節著(新潮社)
「森が語るドイツの歴史」カール・ハイゼ著・山縣光晶訳(築地書館)

( 2008.06.28 甲斐貴也 )


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