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Erstarrung   Op.89-4 D 911  
  Winterreise
氷結  
     冬の旅

詩: ミュラー,ヴィルヘルム (Johann Ludwig Wilhelm Müller,1794-1827) ドイツ
    Die Winterreise 4 Erstarrung

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア   歌詞言語: ドイツ語


Ich such im Schnee vergebens
nach ihrer Tritte Spur,
wo sie an meinem Arme
durchstrich die grüne Flur.

Ich will den Boden küssen,
durchdringen Eis und Schnee
mit meinen heißen Tränen,
bis ich die Erde seh.

Wo find ich eine Blüte,
wo find ich grünes Gras?
Die Blumen sind erstorben
der Rasen sieht so blaß.

Soll denn kein Angedenken
ich nehmen mit von hier?
Wenn meine Schmerzen schweigen,
wer sagt mir dann von ihr?

Mein Herz ist wie erstorben,
kalt starrt ihr Bild darin:
schmilzt je das Herz mir wieder,
fließt auch ihr Bild dahin.

雪の中に空しく探す
あの娘の残した足跡を
彼女が僕の腕にすがり
そぞろ歩いた緑の野で

この大地に口づけし
僕の熱い涙で
氷と雪を融かしてやりたい
土の地面が見えるまで

一輪の花さえなく
緑の草もないのか
花々は死に絶え
芝草はなんと色褪せ

ここから思い出のよすがは
何も持ち出せないのか
苦しみが口を閉ざした時
何が彼女のことを語ってくれる

死んだような僕の心には
彼女の面影が凍りついている:
この心が再び融ける時
その姿も流れ失せる


「凍りついたような」か「死んだような」か

シューベルトは『冬の旅』で何箇所かミュラーの原詩に変更を加えていますが、この曲で問題になるのは第5連第1行の”erfroren(凍った)”を”erstorben(死んだ)”に変えたことです。

ミュラーの原詩:

Mein Herz ist wie erfroren,
Kalt starrt ihr Bild darin:

凍てついたような僕の心には
彼女の面影が凍りついている:

フィッシャー=ディースカウは著書『シューベルトの歌曲をたどって(1971)』で、この部分をミュラーの原詩に戻す事が許される箇所としており、1972年のムーアとの二度目の録音から”erfroren”に直して歌っています。そのムーアも、著書『シューベルトの三大歌曲集(1975)』で、これはシューベルトが急いで書き写したための誤りであり、”erstorben”では意味がおかしくなってしまうというシューベルト研究家リチャード・カペルによる説を紹介し、それを支持しています(ムーアの著書はフィッシャー=ディースカウとカペルに献呈されています)。手持ちのCDではシュライヤー、シュトゥッツマン、トレケル、ゲーハーエルなども”erfroren”にして歌っていました。

しかし御大の見解にたてつくわけではありませんが、いくら急いで写したからといって、シューベルトがわずか5連の詩の中で”erstorben”のような目立つ言葉を二度使うことを不審に思わず、しかも読み違えを後になっても気づかなかったという仮定は、どうも説得力に欠けるように思えてならないのです。そこで逆に、この変更が意図的なものであると仮定してその理由を考えてみました。

シューベルトによる天才的なアイデア、疾走する悲しみの音楽によってこの詩に親しんできたわたしたちは、この詩を読むと、取り乱して雪の野を駆け巡る若者を思い浮かべます。しかし虚心に詩だけを読んだらどうでしょう。一つ前の『凍った涙』に比べて特に歩みを速めた形跡はないように思うのですが。

今は雪に覆われた思い出の地で空しく彼女の足跡を探し、悲しみにくれながら思い出のよすがを求めるものの、雪の中に見出したのは枯れた花々と色褪せた芝草のみ。過酷な現実に愛の終わりを思い知らされた若者は、いつか自分の苦しみが癒えた時のことを思う。この詩の後半で若者はやや冷静になっており、現実を見つめているようにも思います。

しかし『冬の旅』を一貫した深刻な精神の危機の物語として捉えるには、旅が始まったばかりの段階でこんな生ぬるいことを言ってもらっては困ります。第1〜第3連の、思い出の春の緑野→現実の荒涼とした雪景色→掘り出された死んだ花、という強烈な視覚イメージ、胸の張り裂けるような苦しみを音楽で表現し切ったシューベルトですが、その音楽は後半部分で正気を取り戻しかけたようなミュラーの原詩との間に温度差、指向のずれが起きているように思います。この変更はそれを修正するための処置ではないでしょうか。

「凍ったような」ならその箇所の前後関係としては自然ですが、いつかは融けることが期待できる「凍った」では生ぬるいとシューベルトは感じ、より強い表現の「死んだ」に変えたのではないでしょうか。そしてこの語が同じ詩の中で既に使われているのは、その前後関係の意図的引用として読んでみるべきでしょう。”Die Blumen sind erstorben”「花々は死に絶え」。雪の下に埋もれて凍りついた枯れた花。愛の思い出の変わり果てた残骸。それは春に雪が解けたら生き返るでしょうか。氷が解けて流れるだけで死んだ花は死んだままです。それは自らの死と、それによる娘への愛の消滅をも暗示しているようにも思います。それがあえてerstorbenを二度も使った理由であるならば、この変更は原詩の腰砕けを修正するための、シューベルトらしく控え目ながらも実に巧妙な改変であると言えると思います。

( 2008.01.28 甲斐貴也 )


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