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Die Wetterfahne   Op.89-2 D 911  
  Winterreise
風見  
     冬の旅

詩: ミュラー,ヴィルヘルム (Johann Ludwig Wilhelm Müller,1794-1827) ドイツ
    Die Winterreise 2 Die Wetterfahne

曲: シューベルト (Franz Peter Schubert,1797-1828) オーストリア   歌詞言語: ドイツ語


Der Wind spielt mit der Wetterfahne
auf meines schönen Liebchens Haus:
Da dacht' ich schon in meinem Wahne,
sie pfiff’ den armen Flüchtling aus.

Er hätt' es eher bemerken sollen
des Hauses aufgestecktes Schild,
so hätt er nimmer suchen wollen
im Haus ein treues Frauenbild.

Der Wind spielt drinnen mit den Herzen,
wie auf dem Dach,nur nicht so laut.
Was fragen sie nach meinen Schmerzen ?
Ihr Kind ist eine reiche Braut.

風が風見を弄(もてあそ)ぶ
美しい恋人の家の屋根で
血迷った僕は思い込んだ
惨めな逃亡者を口笛で追うのかと

こいつはもっと早く気づくべきだった
家の上に掲げられたこの標(しるし)に
ならば決して求めなかったろう
この家に淑女の鑑など

風は中の人の心も弄ぶ
屋根の上でのように だが音も無く 
誰が僕の苦しみなど気にかけるものか
あの人達の子は金持ちの花嫁なのだ


ヨーロッパの古い家の屋根に多く見られる金属製の風見。古くは紋章の入った旗が用いられたことに由来する呼称であり、金属製であっても”Wetterfahne”(風見の旗)と呼ばれるようです。彼女の家の門に「おやすみ」と記して静かに出た若者の背中に響くのは、風に煽られた風見の立てる騒音。そこで「惨めな逃亡者を口笛で追うのか」と被害妄想的なことを口走りますが、それが血迷った末の思考であることもわかっています。

間髪を入れず続く第二連、三人称で書かれているここは、風見の台詞、あるいはその口笛のような音の意味するものではないでしょうか。そのように訳されている訳もいくつか見ましたが、解説で明確に指摘している例はまだ知りません。もちろんこれは本当に風見が口をきいたのでも幻聴でもなく、若者の本心に違いないのですが、しかし思っていながら決して自分の口には出せない言葉なのだと読みました。若者は娘を恨むことで愛を失いたくないのです。その言えないことを風見の言葉として語る様は、まるで若者が風見を使って腹話術をしているようです。

そしてピアノの「野良犬でも追い払うかのような『口笛』の鋭い前打音」(三宅幸夫氏)がフォルテになって連打される2箇所の歌詞は、それぞれ「惨めな逃亡者を口笛で追う」と「この家に淑女の鑑」であり、風見の嘲笑の底意地の悪さ、若者の屈辱感、失望感が際立ちます。

第三連では、風が屋根の上の風見のように、家の中の人の心を弄ぶと言っていますが、これは娘の心が風に弄ばれたから心変わりしたというのであって、その移り気を風のせいにしているのだと思います。「おやすみ」では神様のせいにしていましたが、今度は風です。奇妙な責任転嫁ですが、もちろんその理由も、裏切られても変わらない(変えたくない)娘への愛でしょう。

全曲を通して若者が娘の心変わりに言及しているのは「おやすみ」とこの曲だけですので、わたしの読みでは、結局若者は娘に対する恨み言を、少なくとも公然とは一度も言っていないことになります。若者が娘の心変わりに心底怒りを抱けたら、門に「おやすみ」ではなく「バカヤロー」と書いて、さっさと他の町に行ってしまったことでしょう。しかし彼にはそれが出来ない。

なぜそこまでこの娘に執着するのかは若者の勝手ではありますが、「疎外の物語」としての紋切り型解釈を講ずるならば、娘との結婚がこの町への完全な帰属、よそ者からの脱却であり、彼の疎外の解消に他ならないからと読めなくもないでしょう。そうなればそれはこの物語で娘の「顔が見えない」ことの理由にもなりえるでしょうし、若者の一方的な愛における娘の人格不在が破局の一因とも推測できるでしょう。彼が愛しているのは娘なのか、それとも家=町=共同体なのか。

既に語りつくされていることではありますが、風に煽られて軋む風見の音を描写するピアノ伴奏は圧巻です。特にフィッシャー=ディースカウのバレンボイムとの盤は、そこにさらに自在なテンポの変化を与えて驚くほど雄弁です。ムーアの伴奏した盤(グラモフォン)では、風見の台詞にあたる部分を皮肉っぽく歌っており、わたしの手持ちの盤の中ではこの演奏が一番それらしく聞えます。ニュアンスに富んだピアノも抜群。

・「軋む風見」〜ヘルダーリンの場合
風見が軋むといえば、シューベルト、ミュラーと同時代の大詩人ヘルダーリン(1770 - 1843 )の代表作「生半ば」が思い起こされます。

Hälfte des Lebens  

Mit gelben Birnen hänget
Und voll mit wilden Rosen
Das Land in den See,
Ihr holden Schwäne,
Und trunken von Küssen
Tunkt ihr das Haupt
Ins heilignüchterne Wasser.

Weh mir,wo nehm ich,wenn
Es Winter ist,die Blumen,und wo
Den Sonnenschein,
Und Schatten der Erde?
Die Mauern stehn
Sprachlos und kalt,im Winde
Klirren die Fahnen.

生半ば 

黄色の梨実り
野薔薇咲き満ちて
大地は湖水に迫る
汝ら優婉なる白鳥たち
口づけに酔いしれ
清冽なる水に
その首を浸す

哀しいかな 何処で摘む 冬が
来たれば花々を 何処に
陽光は
そして地の蔭は?
壁が聳える
言葉無く冷たく 風の中
軋めく風見

(拙訳)

これは裏切りではなく、別離の後の死別で残された者の詩ですが、過ぎ去った幸せ(春、秋、冬の季語が混在している)を歌う流麗な前半と、後半の無骨な表現による暗澹とした現在の対比が『冬の旅』に通じるものがあると思います。
名著『ドイツ詩必携』(鳥影社)で山口四郎氏は、「この荒涼とした世界では、屋根の風見----これは明らかにブリキ製!----までがキリリリと不気味な不協和音を立てている(ちなみに言うが、一般訳の『風に鳴る、屋根の風見は』ぐらいでは、『Klirren』なる語の醸す感じは到底伝え得ない)。」としています。そこで拙訳では擬音語キシキシ=ギシギシ由来と言われる「軋む」を当てました。
“Fahnen”という語は、わたしの手持ちの辞書(小学館大独和辞典、木村相良独和辞典、新式獨和大辞典)にはどれも「旗」に類する訳しか載っていませんが、手塚富雄、川村二郎、大山定一などの大家はいずれも「旗」ではなく「風見」、「風信子(かざみ)」などと訳しています。

( 2008.01.10 甲斐貴也 )


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