酋長の娘 |
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わたしのラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人 赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る 踊れ踊れ どぶろくのんで 明日は嬉しい 首の祭り 踊れ踊れ 踊らぬものに 誰がお嫁に 行くものか 昨日浜で見た 酋長の娘 今日はバナナの 木陰で眠る |
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差別的な歌は人間の性としていつの世にもどこの国にもあると思います。そんなものを面白がってネットに載せていると人としてのあり方が問われることになるのかも知れませんが、昭和初めに大ヒットしたこの曲、いろいろと考えさせられるところ大ですので皆様の寛大な心を期待してご紹介したいと思います。
確かに率直に言えば、これはかなり偏見と誤解に満ち溢れた「ヒドイ」歌詞であるように感じられなくもない部分もあるのですが、またある種無邪気でおおらかなところも感じられます。例えば現代でも平気で歌われている子供の歌の「南の島のハメハメハ大王」だって、実際に南の島に住む人が「朝日の前に起きてきて 夕日の前に寝てしまう」であるとか「覚えやすいがややこしい、会う人会う人ハメハメハ」なんてフレーズに強い不快感を表明されたとしても驚くには当たらないのですから、現代の価値観と知識だけで過去のものを断罪したり差別された当事者でもないのに強烈な不快感をぶつけたりするのはいかがなものかと思うのです。もちろんマーシャル諸島の人の前で嫌がらせっぽく歌ったり、陰で悪口をいうためにこの曲を引用したりするのはその人の品性が疑われても当然ですが、そういう風になってしまうことを恐れて存在自体をなかったことにしてしまうのは私はあまり賢いことだとは思えません。
さてこの歌、演歌師として太平洋戦争前は社会風刺に大活躍し(一時期は吉本興業にも所属されてたのですね)、戦後は衆議院議員にまでなった石田一松の作品とされる歌です。作られたのは大正の終わり頃のようですが、記録によれば昭和5年に大阪南地・富田屋喜久治によってレコーディングされたとあります。他にも記録を見ると当時中村慶子や新橋喜代三という人なども録音しているようですが。
で、「富田屋喜久治」や「新橋喜代三」は言ってもこれ、女性です。懐メロに詳しい方は良くご存知のところでしょうが、この昭和初期には芸妓あがりの(あるいは現役の芸妓の)歌手がたくさん現れていて、有名なところでは小唄勝太郎であるとか藤本ニ三吉・美ち奴に市丸なんて人がいます。彼女たちの若かりし頃の歌声などを聴くとけっこうアイドル声なので、当時は若者たちも魅了したんでしょうね。今の感覚ではパッと見は全然違いますが、我々の時代のおにゃんこ倶楽部とかモーニング娘と当時の若い男性ファンに対する関係や役割はあんまり変わらなかったのではないかと思えます。
彼女たちの歌ったこの歌のオリジナルは残念ながらまだ聴いたことがないのですが、こんな当時の芸妓歌手のあり方を今に伝えてくれて、一部でカルト的な人気を誇るお座敷アイドル歌手「桧山うめ吉」さんの吹き込まれたこの歌が今は容易に聴けるかと思います。ぜひ聴いてみて大正〜昭和初期のアイドル歌手のあり方に思いを馳せてみられてはいかがでしょうか。余談ですが新橋喜代三はのちに中山晋平の奥さんになった人でした。
さてもう少し調べて見ると実際のところ、石田一松が作って爆発的に広まる前にこの曲はオリジナルが別にあったみたいです。旧制の高知高校(今の高知大)の学生だった余田弦彦(よでんつるひこ 1902-1927)が学校の寮祭の出し物としてフラダンスをした時に作ったといわれる「だぐだぐ踊りの歌」というのがあり、メロディはちょっと違うみたいですが、歌詞はこの良く知られた「酋長の娘」とソックリです。太平洋のマーシャル群島なのになぜかインダス河が突然出てくるのがちょっと引っかかりますが...
赤道直下のマーシャル群島
椰子の葉陰でだぐだぐ踊る
踊り踊って夜を明かしゃ
明日はバナナの下で寝る
昨日山で見た酋長の娘
今日はいずこでだぐだぐ踊る
踊り知らない人はいや
誰が踊りにゆくものか
ユーカリ茂れるインダス河で
椰子の葉陰でバナナが実りゃ
娘踊れやだぐだぐ踊れ
明日は天気か夕日が赤い
この余田弦彦、高知高校の寮歌として名高い「豪気節」の作者としても知られた人ですが、残念ながら京都帝国大学在学中に25歳で夭折したのだそうです。そんな経歴が彼の出身地の熊本県荒尾市のホームページに郷土の文化人(?)として紹介されていました。なるほどバンカラ学生の宴会芸が発祥ってわけですね。彼の年齢を考えるとこの「だぐだぐ踊り」は大正末の作でしょうか。この段階でもう「マーシャル群島」の名前が出てきておりますが、実はこの太平洋の島々、第一次世界大戦まではドイツの植民地であったのですけれども戦争で日本が占領、そのまま大正末には日本の委任統治領となったところです。その意味で当時の日本人の多くの関心を引いていたところもあるのでしょう。
そしてこれを下敷にして石田一松が書いたとされる歌、まず最初の節の「私のラバさん」ですが、ラバとはLoverのこと。昭和の初め頃の歌謡曲、ジャズがどっと入ってきたせいもあるのでしょうが、歌詞の一部に外国語を入れるのがたいへん流行っていたようです。西条八十/橋本國彦の「お菓子と娘」でも「角の菓子屋へボンジュール」とか...(もっと強烈な歌詞の歌もいろいろありますがそれはおいおい紹介していきましょう)
そして興味深い話が、マーシャルではなくてそれより少し西に離れたチューク(トラック)島になるのですが、高知出身の商社マン・森小弁(1869-1945)が明治の終わり頃、この島の酋長の娘と結婚し島の発展に尽くしたという話があり、この歌のモデルも彼ではないかという説もあるようです。昭和の初め頃にそれがどの程度知られた話であったのかにもよりますが、このチューク島も第一次大戦後に日本の統治となったようですのでこちらもかなりの関心は引いていたのではないかと思います。森はそのままチューク島に留まり、今では彼の子孫がチュークにはたくさんいるのだとか。
「首の祭」なんていうフレーズは異文化に対する無知と偏見にあふれているようにも感じられますけれども、今でも似たようなアニメやら歌やらが日本でも相変わらず作られていますので、決して当時の人だけが下劣であったわけではないはずです。というよりも全体的には何だかほのぼのとした感じもあって、「ハメハメハ大王」の歌とそんなに変わらないところもあるようにも感じますけれど...
( 2007.12.08 藤井宏行 )