満州娘 |
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わたし十六 満洲娘 春よ三月 雪解けに 迎春花(いんしゅんほわ)が 咲いたなら お嫁に行きます 隣村 王(わん)さん待ってて 頂戴ね ドラや太鼓に 送られながら 花の馬車(まーちょ)に 揺られてく 恥ずかしいやら 嬉しいやら お嫁に行く日の 夢ばかり 王(わん)さん待ってて 頂戴ね 雪よ氷よ 冷たい風は 北のロシヤで 吹けばよい 晴れ着も母と 縫うで待つ 満洲の春よ 飛んで来い 王(わん)さん待ってて 頂戴ね (作詞者の著作権は切れておりますので掲載しましたが問題あればご指摘ください) |
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日本は確かに中国を侵略し植民地を建設していましたが、その本音のところはともかくも、アジアの人たちと共存していこうという気持ちは持っていたのだと思います。昭和13年に大ヒットしたこの曲、別に中国の人を蔑視しているわけでもなく(これで蔑視というのなら「チンライ節」みたいにヒドイのが他にたくさんあります)、非常に微笑ましい光景が歌われています。音楽の方も鈴木哲夫のちょっとキッチュなメロディにデビューしたての服部富子(服部良一の妹)の初々しい歌声が乗るのは非常に印象的です。戦後も相当あとの生まれであるにも関わらず私はこれ、子供の頃にも最後の「ワンさんまっててちょうだいね」の部分だけをなぜか聞き覚えていました。寒い寒い北国の春を待ち望む娘の気持ちが非常に可愛らしくてなかなか悪くないと思うのですが、リアルタイムに聴いた方がいなくなると共に忘れ去られていく歌になるのでしょうか。「満州」という言葉も含めて今の日中関係ではちょっと微妙な歌詞の内容であることは確かですし。
昭和13年といえば、すでに日中戦争は泥沼化しており、満州国を一歩出るととんでもない戦乱の只中であったようですが、満州の中は意外と平穏だったようです。ましてや戦場からはるか離れた日本では決して軍歌や戦争映画のような戦争絡みのものだけが幅を利かせていたのではないということは知っておいても良いのではないでしょうか。戦争を体験していない世代にはなかなか実感できないところですが、太平洋戦争の末期になって本土が直接攻撃を受けるようになる前は戦争というのもどこか遠くで起こっている別世界の話のようなところがあって、例えていえば平和な町からお父さんたちが海外にたくさん単身赴任していって赴任先でばたばたと過労死してしまっているような感覚でしょうか。確かに不気味な閉塞感のようなものはあったとは思うのですが、あまりリアルな感覚はなかったのではないかという感じがします。
中国でも、主戦場になっていない満州の中ではこの歌のようにのどかな光景があふれていたのでしょうか。
ソ連軍が攻めてきてからの悲惨な逃避行ばかりが歴史の中では強く印象に残る中国東北部ですが、満州国建国当初はこんなシーンもあったのだ、ということ、そして海を渡った日本人は現地の人に対して決して差別的な眼差しばかりを向けていたのではなかったのだということは間違いないと思いました。
くしくもこの歌の詞を書いた石松秋二は、そんな満州国崩壊の1945年にこの地で命を落としています。進入してきたソ連軍に殺されたのだ、と書いてある資料もありました。
鈴木哲夫の書いたメロディはいかにもキッチュで微笑ましいです。中国音楽のぱちものだといってしまえばその通りですが、そもそもそういうつもりで曲を書いたのでしょうから大成功なのではないでしょうか。
ネットではこの人の経歴などは残念ながら調べきれていないのですが(あまりに同姓同名の方が多いので)、他の作品で知られたものとしてはディック・ミネが歌った「旅姿三人男」があります。
またこの曲の大ヒットからでしょう。二匹目のドジョウということで「北京娘」やら「南京娘」やらいう類似曲がこのあと量産されています。が二番煎じの宿命でどれも歴史には残っていないようです。
( 2007.03.24 藤井宏行 )