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黴(かび)    
 
 
    

詩: 深尾須磨子 (Fukao Sumako,1888-1974) 日本
      

曲: 橋本國彦 (Hashimoto Kunihiko,1904-1949) 日本   歌詞言語: 日本語


詩:著作権のため掲載できません。ご了承ください


橋本国彦が前衛的ともいえる歌曲を書いたのは、そのすべてが深尾須磨子の詩であったことはなかなか興味深いことです。彼が「黴」や「斑猫」、それに「舞」などの鮮烈な作品を書いた1928〜29年に、同時に彼は「お菓子と娘」や「薊の花」「富士山見たら」みたいな曲も書いていたのですからその多才振りには驚かされるばかり。まあ確かに日本で最初に前衛的な歌曲を書く時に詩が北原白秋や西条八十じゃあちょっとつらいですよね。新進気鋭の女性詩人の研ぎ澄まされた言葉だったからこそ、橋本の作曲の技も冴え渡ったということなのでしょう。深尾と親しかったソプラノ歌手・荻野綾子がフランス留学帰りに彼にフランス印象派の歌曲を彼に紹介したことがきっかけになったと関定子さんのCDのライナーで小島美子さんが書かれていましたので、それもひとつのこの詩人と作曲者との接点のようではありますが。
さて、この曲「黴(かび)」ですが、「斑猫」のように美しい印象派風メロディがあるわけでもないですし、「舞」のように日本情緒でうまくカムフラージュしてない分一番音楽としての鮮烈さが際立つ作品となりました。歌詞の不気味さも曲に輪をかけて激しく、この曲を鮮烈にすることに一役買っています。戦後は多くの作曲家がこんな感じの歌曲を(それこそ腐るほど)書いているように思いますけれども、そのパイオニアとしての価値は決して色褪せていませんし、デクラメーションの合間の歌のメロディは悲しくも美しくこちらもまた魅力的です。歌うと思えば語り、唸り、叫ぶ。梅雨時の憂鬱な気分が爆発する怒りになったり、やるせない孤独感になったり、はたまた骸骨の踊りの幻影を見せたりと詩も音楽も表情が二転三転し、最後は「窓かけも 机も 本箱も 憂鬱の 悲哀の 寂しさの 黴だらけになってしまった」と静かに悲しく曲を閉じます。
あまりのアバンギャルドぶりに、今でも演れる人も聴ける人も限られるのかほとんど聴くことのできる機会もないようですが、繰り返し繰り返し歌詞も見ながら聴いたらあまりの凄さに痺れが来ました。語りの渋い藍川盤、対照的に歌の雄弁な関盤とそれぞれに魅力的ですが、もっといろいろな歌で聴いてみたいものです。でもこの曲をうまく歌いこなすのは相当大変そうではありますが...

( 2007.01.02 藤井宏行 )


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