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Der Tod des Dichters   Op.135-10  
  Symphony no. 14
詩人の死  
     交響曲第14番「死者の歌」

詩: リルケ (Rainer Maria Rilke,1875-1926) オーストリア
    Neue Gedichte  Der Tod des Dichters

曲: ショスタコーヴィチ (Dimitry Shostakovich,1906-1975) ロシア   歌詞言語: ドイツ語


Er lag. Sein aufgestelltes Anglitz war
bleich und vemeigernd in den steilen Kissen,
seitdem die Welt und dieses Von-ihr-Wissen,
von seinen Sinnen abgerissen,
zurückfiel an das teilnahmslose Jahr.

Die,so ihn leben sahen,wußten nicht,
wie sehr er Eines war mit allem diesen;
denn Dieses: diese Tiefen,diese Wiesen
und diese Wasser waren sein Gesicht.

O sein Gesicht war diese ganze Weite,
die jetzt noch zu ihm will und um ihn wirbt,
und seine Maske,die nun bang verstirbt,
ist zart und offen wie die Innenseite
von einer Frucht,die an der Luft verdirbt.
彼は横たわる。彼の置かれた顔は
蒼ざめてすべてを拒むようだった、うず高いクッションの中で
こうして世界と、そして世界に関する知は
彼の心から引き離されて行き
また無感覚な年月へと引き戻されていった

詩人の人生を見届けてきた人々は知らなかった
これらすべてと彼とがいかに深く結びついていたのかを
なぜなら世界が、その谷間が、野原が、
その水辺が彼の表情そのものだったからだ

おお、彼の顔はこの風景の広がりそのものだった
そしてそれらはなお、詩人を求めて彼のまわりにまとわりつくが
彼の顔、死におびえているその顔は
柔らかく、口を開いている
空気にさらされて腐っていく果物の中身のように


リルケという詩人は、死に対しても特別の感覚を持った人のようです。この詩もなんだか仏教の梵我一如みたいな感覚を歌っていますが、にも関わらず読んだ感想はとても怖いです。「死んじまえばおしまいよ」っていうのが輪廻転生を否定した仏教の教義であるならば、この詩などその究極の描写ではないでしょうか。
さて、この詩を交響曲14番のテキストでロシア語訳しているのはT-シールマンという人のようですが、これはロシア語詩の方が分かりやすいです。といいますかリルケの原詩が非常に分かりにくいと言った方が正しいでしょうか。私も一晩じっくり考えて何とか意味が通るように訳文を練ってみましたが、それでもいまひとつ内容に納得がいかないものがあります。まあ野暮ながら補足解説をしておくと、詩人の顔・表情そのものがこの世界を映し出す鏡、というより世界そのものだったわけですが、死んでしまえばもうそれは「なんにもない」。あとはただ「腐って消えていくだけ」というある意味身も蓋もない思想がここには現れているのではないか、という風に私は読みました。詩はウクライナの詩人、シェフチェンコのデスマスクに触発されて書かれたものだとのことです。
ですからショスタコーヴィチがこの交響曲の最後の最後にこれを持ってきた重みというのは、実はとんでもないものがあり、ある意味この曲の重さを一手に引き受けているところだとさえ言えるでしょう。ここまでの楽章で死にまつわるいろいろな物語があったけれども、結局行き着くところは何もない。ただ死だけ。
第一楽章冒頭で鳴っていたモティーフがここでは繰り返し繰り返し再現されてソプラノの歌声とともに展開されます。ヴィシネフスカヤの歌(ロシア語版)が恐ろしいまでの迫力で迫ってくるロストロポーヴィチ指揮のモスクワ・アカデミー管の演奏を以前は聴いては打ちのめされていましたが、こうやって詩を読み込んでみての正直な感想は、これはもっと静謐に、静かに歌われる曲なのではないかということで、本当にバーバラ・ボニーあたりのソプラノでこのドイツ語の詩がバッハのカンタータのように歌われるのを聴いてみたいものだという思いにすら駆られてしまいます。ロシア語版でのオーマンディ/フィラディルフィア管のフィリス・カーティン、あるいは原語版のハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管でのユリア・ヴァラディなどの歌が声だけ取るとそれに近い雰囲気がありましたが、やはり何というか全曲のクライマックスだ、という気負いが感じられて生々しさが抜けません。

( 2006.09.24 藤井宏行 )


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