Zhelanije Op.57-25 Dvadtsat’ pjat’ stikhotvorenii Pushkina |
願い 25のプーシキンの詩 |
Medlitel’no vlekutsja dni moi, I kazhdyj mig v uvjadshem serdtse mnozhit Vse goresti neschastlivoj ljubvi I tjazhkoe bezumie trevozhit. No ja molchu; ne slyshen ropot moj; JA slezy l’ju; mne slezy uteshen’e; Moja dusha,ob”jataja toskoj, V nikh gor’koe nakhodit naslazhden’e. O zhizni son,leti,ne zhal’ tebja, Ischezni v t’me,pustoe prividen’e; Mne dorogo ljubvi moej muchen’e; Puskaj umru,no pust’ umru,ljubja! |
のろのろと日々は過ぎて行き その一瞬一瞬に私の心にはふくれ上がる 不幸な愛の悲しみが そして重苦しい憂鬱が だが私はだまったまま:私のつぶやきは聞こえないまま 私は涙を流す、涙は私のなぐさめだ 私の心は憂いに満ちて 涙の苦い味を知る ああ、生きる夢よ!飛んで行け、私は悲しみはしない 闇の中で消え去るがいい、空虚な幻よ 私には愛の苦しみすべてがいとおしい 私を死なせてくれ、ただ死なせてくれ、愛のために! |
プーシキンの詩をいろいろ眺めていて感じることは、私のようなロシア語ド素人が眺めてもすっと腑に落ちるような分かりやすい言葉で、微妙な心の襞を見事に表現していることです。現代のロシアにおいても彼の詩の人気が高いというのはそういう点で非常に納得です。この詩も実らぬ恋のやるせなさを絶妙に表していると思いませんでしょうか。しかもこの詩、プーシキンがまだ学生時代の10代後半の作品であるというのにも驚かされました。
そしてそんなプーシキンのいろいろな詩に西洋風の美しいメロディーを付けてくれているのがツェザール・キュイ、彼のプーシキンによる歌曲はすでにこのサイトでも2曲取り上げていますがどちらも詩も音楽も見事。あまりロシア臭くない音楽が意外とプーシキンの抒情に合っています。
そしてこちらにキュイの付けた曲も、ぱっと聴いた耳にはエディット・ピアフの歌うシャンソンのように聴こえました。しかしそこにほのかにロシア民謡のような情緒が見え隠れして不思議な雰囲気です。
( 2006.09.23 藤井宏行 )