À la Santé Op.135-7 Symphony no. 14 |
ラ・サンテ監獄にて 交響曲第14番「死者の歌」 |
Avant d'entrer dans ma cellule Il a fallu me mettre nu Et quelle voix sinistre ulule Guillaume qu'es-tu devenu Adieu adieu chantante ronde O mes années ô jeunes filles Le Lazare entrant dans la tombe Au lieu d'en sortir comme il fit Non je ne me sens plus là Moi-méme je suis le quinze de la Onzième Dans une fosse comme un ours Chaque matin je me promène Tournons tournons tournons toujours Le ciel est bleu comme une chaine Dans une fosse comme un ours Chaque matin je me promène que deviendrai-je ô Dieu qui connais ma douleur Toi qui me l'as donnée Prends en pitié mes yeux sans larmes ma pâleur Et tous ces pauvres coeurs battant dans la prison L'amour qui m'accompagne Prends en pitié surtout ma débile raison Et ce désespoir qui la gagne Le jour s'en va voici que brûle Une lampe dans la prison Nous sommes seuls dans ma cellule Belle clarté chère raison |
牢屋に入れられる前に 俺は裸にされた そこに冷ややかな声が聞こえてきた ギョームよ、お前はなんのザマか、と さらば、さらば楽しげなロンドよ おお、青春よ、若い娘たちよ かのラザロが墓の中に入るようなものだ 彼が墓から出てきたのと反対に 俺はもう何者でもない ここでは11号室の囚人15番だ 檻の中をまるで熊のように 毎朝俺は歩き回る あっちの方、こっちの方、うろうろと 空は鎖のように青い 檻の中をまるで熊のように 毎朝俺は歩き回る 俺はどうなってしまったのか、おお俺の苦しみを知る神よ 苦しみを俺に与え給うた神よ もう涙も出ない俺の目に憐れみを そして牢屋の中で脈打つすべての悲しい心臓に 俺につきまとってくる愛に そして俺の崩れ落ちそうになる正気に憐れみを この膨れ上がる絶望に 1日は過ぎ去り 刑務所のランプの下 俺たちは独房の中で2人きりだ 美しい光、俺の理性と |
詩人ギョーム・アポリネールが、ルーブル美術館での美術品盗難の冤罪でこのラ・サンテ監獄に1週間収容されたときの思いを詩にしたためたものです。身に覚えのない罪でこんな辱めを受け、牢屋の中で有り余る時間にいろいろなことを考えていたら耐えがたい思いになってしまうのでしょうね。「崩れ落ちそうになる理性」というのが切実です。そして最後のフレーズでの一日が終わるときの「俺は俺の理性と2人きりだ」という表現がことのほか印象的でした。なお上の方に出てくるラザロというのは新約聖書でイエス・キリストが甦らせたと言われる死者の名前、彼とは逆に墓穴に入るというのはまさにこれから死にゆくイメージです。たとえ冤罪であることがあとから分かっても、それまでの間に犯罪者の烙印を押された者はいろいろなところから容赦のないバッシングを受けますし、まさに「社会的な死」を経験している詩人、といったところでしょうか。そしてもっと深読みをすれば、かのスターリンの時代にはこんな身に覚えのない罪で、あまりにも多くの人が牢獄に収監され、そして帰ってくることすら叶いませんでした。そのことがこの詩をショスタコーヴィチが選び出したことのひとつの理由なのではないか、といったことも感じます。
コメント欄でHayesさんにも書いていただきましたとおり、この詩はロシア語版ではかなり内容が違います。相当ロシア語の翻訳者(クディノフ)が表現をいじってしまっているのでしょう。個人的にはアポリネールの原詩の方がにじみ出てくるやるせない悲しみにあふれて味わい深いように思うのですが(とはいえどうせ私が日本語に訳しちまえば味わいもへったくれもないですかね。そう思われた方は堀口大学の訳したアポリネール詩集などをご覧ください)、皆様はいかがお感じでしょうか。また今回フランス語の原詩を初めて見たのですが、歌になっているものとはかなり構成も変わっていて、曲の方に合わせるために原語版の方でも詩の方をだいぶいじっている感じです。さすがに翻訳者のクディノフがここまでズタズタにするとは思えないので、ロシア語詩から曲を作る際にたぶん作曲者が手を入れたのでしょう。そこで涙を飲んでショスタコーヴィチのシンフォニーで使われている形に原詩の方も合わせました。実際はもっと長い詩です。大サーヴィスで原詩全部を読んで訳をつけたものはこちらの方に置いておきますのでご興味をお持ちの方はご確認ください。
ラ・サンテ監獄にて 原詩対訳
残念ながらロシア語詞は著作権の関係で掲載できませんがこれはCD対訳などで容易にご覧頂けるものと思います。原詩でもヴェルレーヌの「牢獄から」を思わせるような「街のざわめきが聴こえてくる」ところなんかはなかなか良いと思うのですがショスタコーヴィチの音楽ではカットされてしまっています。この監獄自体が「墓」だからこの世の接点などなくなってしまっているはずというところでしょうか。
音楽の方は、牢屋に入れられるところまでの2節が悲しみに満ちた静謐な音楽で彩られ、そこから長い間奏が入ります。原詩と順序を入れ替えてこの長い間奏の直前に「墓に入っていくラザロ」の節を入れたところなど絶妙ですね。これは足取りも重く、発する言葉もなく牢屋に歩いていく姿の描写でしょうか、ショスタコーヴィチお得意の弦のコルレーニョとピチカートの掛け合いに打楽器が絡んだ響きは本当にやつれ果てた足音のようです。間奏が終わってからは「墓の中」である牢獄の中の描写。やはり静かにじわじわとこみ上げてくる悲しみの音楽は心を打ちます。
( 2006.09.08 藤井宏行 )