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2011/11/02 ヒルズバラ悲劇(英国のフットボール悲劇)

ヒルズバラ悲劇は、1989年4月15日にヨークシャー(シェフィールド市)にあるシェフィールド・ウェンズディのホーム・スタジアムであるヒルズバラ・スタジアムで行われたFAカップ準決勝、ノッティンガム・フォレスト対リバプールの試合で発生しました。

(前置き)FAカップ準決勝
FAカップ戦は、準決勝より前のラウンドでは全て、対戦するチームのどちらかのホーム・スタジアムで行われます(クジで勝って「ホーム」になった側のチーム)。しかし準決勝と決勝はニュートラルなスタジアムで行われます。決勝戦はウェンブリーと決まっていますが、準決勝は、対戦するチームにとって地理的にニュートラルになるようなトップ・ディビジョンのクラブのスタジアムが使われます。(最近は、準決勝もウェンブリーで行われることもありますが、これはごく最近の例外です)。もちろん、準決勝ですから試合は2つあります。2つ共に、同様に対戦する2チームにとってのニュートラル・スタジアムが選ばれます。

例えば、準決勝がマンチェスター・シティ対チェルシーという対戦だったとしたら、マンチェスター市とロンドン市の中間に位置するバーミンガム市のビラ・パーク(アストンビラのホーム)、という具合です。

更に、準決勝の2試合は、決勝進出のチームに平等になるようにと、必ず同じ日の同じ時間に行われていました(最近は別の日に行われることもありますが、これは例外です)。

1989年当時はトップ・ディビジョンにいたシェフィールド・ウェンズディのスタジアムが、ノッティンガム市にあるフォレストとリバプール市にあるリバプールにとってのニュートラル・スタジアムとして抜擢されたわけです。スタジアムの警備に当たったのは地元警察であるサウス・ヨークシャー警察です。

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悲劇の背景 当時、二大人気チームだったリバプールとノッティンガム・フォレストは、1年前(1988年4月)のFAカップ準決勝でも対戦し、同じスタジアムで試合が行われました。

この時にも、リバプール・ファンは同じくthe Leppings Lane end of the ground(レッピング・レーン・スタンド)の方を当てられました。




1年前には、スタジアム警備に当たったサウス・ヨークシャー警察は、フットボールの試合のスタジアム警備に関してはイングランド中でトップクラスと言われていた経験豊富なモール主任警視が責任者として任務し、その結果、試合は何の事故もなく問題なく終わりました。(結果はリバプールが勝ち) 

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1年前との違い(スタジアム警察の責任者の交替)
1989年FAカップ準決勝の対戦が決まる直前、1989年3月に、半年前に発生した警察内部のスキャンダルの責任を問われ、モール主任警視が左遷されることになりました。

代わって主任警視に就任したのはDuckenfield(ダックンフィールド)という人物で、フットボールの試合でのスタジアム警備の経験がゼロという人でした。

しかも、ダックンフィールド主任警視はFAカップ準決勝の僅か21日前に就任したばかりで、試合までに十分な経験を積む時間もなく、必要な準備がされないまま、ビッグ・イベントであるFAカップ準決勝のスタジアム警備という重大な任務を遂行することになったわけです。

ダックンフィールド主任警視は、FAカップ準決勝の任務に備えて、準備として、シェフィールド・ウェンズディ対ミルウォールの試合でスタジアム警察としての初仕事を遂行しました。この試合はわずか2,000人のアウェイ・サポーターで、観客数もFAカップ準決勝とは比較にならない規模の試合でした。そのような試合を「初体験」しただけ、というダックンフィールド主任警視にとって、フットボール・スタジアムの警備という任務の重大さ、ましてやFAカップ準決勝という重たさを知る余地がありませんでした。

かくして、ダックンフィールド主任警視は、ヒルズバラ・スタジアムもレッピング・レーンのレイアウトも習得しないままFAカップ準決勝を迎えました。

1年前と同じチーム同士が同じスタジアムで対戦し、同じスタンドが両チームに割り当てられた、という概要に誰もが「1年前と同じく、何も問題なく無事試合が行われる」と楽観視していました。

唯一の差異である、スタジアム警察の責任者の交代という事象を知る人の方が少なかったのでした。知っていた人も、その差異が大きな悲劇を呼ぶ直接の原因になるとは予想していませんでした。 

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事件当日(1989年4月15日)
1989年4月15日、イングランド国内では2つのFAカップ準決勝が行われました。ヒルズバラではリバプール対ノッティンガム・フォレスト(Nottingham Forest)、バーミンガム市のビラ・パーク(アストンビラのホーム)ではエバトン対ノーウィッチ・シティという2試合でした。つまり、リバプール市内の2チームが揃って準決勝を迎えていました。

したがって、マージーサイドでは午前中に、青いファンはバーミンガムに、赤いファンはシェフィールドへと向かいました。どちらのスタジアムも、リバプール市から車で2時間程度の距離にあり、両ファンはいつものユーモア精神でジョークを言いあいながら各々の試合へと向かいました。

FAカップ日和の良い天気でした。こんな日に、イングランド・フットボール界最悪の悲劇が起きるなどと誰も予想しませんでした。

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ヒルズバラ 
前年と同じく、レッピング・レーン側のスタンドがリバプール・ファンに割り当てられました。スタンドの規模からいうと逆側の方が収容人数が多く、ファンの数が多いリバプールは、逆のスタンドを割り当ててほしいと要望を出していましたが、FAから却下され、今年も小さい方のレッピング・レーンが割り当てられたわけでした。

このレッピング・レーンはペンと呼ばれる区画に分けられており、刑務所の独房のようにペン間の行き来はできない窮屈なスタンドでした。その中の、中心にあたるペン3と4が、事件の発祥地となりました。



それは、ゲートから順路と思える道を通ってゆくとまっすぐのところにペン3,4があるため、このスタンドに慣れていないアウェイのファンにとってはよほど手厚く誘導されない限りはまっすぐペン3,4に行きつくのが最も自然な道のりでした。この日は、スタジアム警備が、責任者である主任軽視の交代直後のための経験不足が理由で、ファンに対する誘導をほとんど行えておらず、ファンはペン3,4に集中しました。

ペン3,4の収容人数は2,100人ですが、この日の実際の入場者数は、スタジアム警備の不備(?)のため正式な記録はありませんが、推定で10,100人と見られています。スタジアム警察は、アウェイのファンを各ペンに均等に入るように誘導するのが任務のひとつですが、この日はそのような措置は全くとられず、何の誘導もないままリバプール・ファンはまっすぐペン3,4に入って行きました。

試合開始30分前の14:30、「既にペン3,4は収容人数をはるかに超えていたが、両側のペン1,2はガラガラに等しい状態だった」と他スタンドにいたファンは証言しています。

ゲートの外では、スタジアム警察がファンを中に入れるために不必要な二重チェックを行うなど、混雑の要因を悪化させていました。リバプール・ファンはこの日、24,256人のファンがヒルズバラ・スタジアムに詰めかけました。ターンスタイルは23あり、いずれのターンスタイルもファンの列が長くなる一方で、なかなか中に入れずにいるファンが警察に向かって「早く入れて」と文句を言う姿も出てきました。 

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警察の不必要な二重チェック
この時点で4年前に当たるハイセル事件で、酒に酔ったリバプール・ファンが起こしたフーリガン事件を念頭に置いたための厳重チェックでした。

しかし、後にさまざまな虚偽の証言がされたような、「リバプール・ファンはチケットを持たずにスタジアムに来た」「酒に酔っていた」という事実は皆無に等しかった、と生存者は証言しています。警察の二重チェックは疑いに過ぎず、後の保身のための虚偽の証言とタイアップして不正な容疑がかけられたものでした。

記録されている限り、リバプール・ファンは酒に酔ってもおらず、(適切な量のアルコールを飲んでいた人はいたにせよ、泥酔には程遠い状態だった)、チケットを持たずにスタジアムに来た人も皆無に等しかったそうです。

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ペン3,4
試合開始が目前に迫った時点で、警察のハンドリングのまずさのため、ゲートの外にはまだ中に入れずにいるリバプール・ファンが多数いました。さらに、本来はこの時点でキック・オフを遅らせる措置が取られるべきでしたが、しかし、決断を迫られたダックンフィールド主任警視は、キックオフを遅らせる必要性がある事態だと判断できなかったため(=経験不足のため)、レフリーには何の報告もせぬまま、レフリーは何も知らずに試合開始の笛を吹きました。

レッピング・レーンのペン3,4では、この時点ですでに収容人数をはるかに超えた観客が入っており、最前列にいたファンが後ろから押されてフェンスに押しつぶされつつありました。助けを求める声も出せないまでに消耗していた人々、この時点で既に意識を失っていた人々がいた、と生存者は証言しています。



ペン3,4をピッチの上から見上げていたスタジアム警察は、生死をさまよっていたファンを見て「ふざけているのだろう」と思ったようでした。事態の深刻さに気付いた警官はなく、助けを求めるファンの声を無視して黙って立っていた、と生存者は証言しています。生死をさまよっていたファンにとっては、警官の無反応に怒りを感じ、馬頭を浴びせる人も出てきたそうです。

最前列には、女性や子供もいました。これら体力的に弱い人々を救おうと、リバプール・ファンは体力を振り絞って数人のファンを肩車で上にあげ、フェンスを乗り越えてピッチに逃がすような努力が開始されました。

命からがらピッチに降り立った数人のファンを見て、事情を知らない人々が「リバプール・ファンがピッチ侵入のフーリガン事件を起こした」と解釈した人もいたとのことでした。

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悲劇の勃発
ダックンフィールド主任警視が、ゲートの外の事態に気づいて「ゲートCを開けろ」と命令したのはその直後のことでした。しかし、ゲートCを開けた場合には、同時にゲートCから中に入るファンがまっすぐ進まないよう(=まっすぐ進めば既に混雑していたペン3,4に入ることになるため)、警察が誘導しなければならなかったものが、この時点でも警察の誘導はなく、ゲートCから中に入ったファンはまっすぐペン3,4に向かって走った。既に最前列では圧死に近い状態になっていたペン3,4では、さらに(事情を知らずに後ろから)走ってきたファンの圧力で、フェンスが倒れるほどの事態になりました。



さすがにこの時点に至って、警察から何も知らされていなかったレフリーも、スタンドに異常事態が発生したということに気づき、笛を吹きました。これが15:06です。 

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ダックンフィールド主任警視の虚偽の証言 
事態の説明を求められたのは、当然のことながらスタジアム警備の責任者であるダックンフィールド主任警視でした。FAの会長から質問を受けたダックンフィールド主任警視は、「遅れて到着したリバプール・ファンが、早く中に入りたいがために、ゲートCを押し破った。ゲートCから入ったリバプール・ファンの多くはチケットを持たずにスタジアムに現れ、ゲートを押し破って中に入ろうとした」と虚偽の証言をしました。

ゲートCを開けたのは(リバプール・ファンが押し破ったのではなく)、ダックンフィールド主任警視本人が命令した、ということは、後にビデオ証拠の調査で判明しました。ましてや、ゲートCから中に入ったリバプール・ファンはみなチケットを持っていたことも、後で証明されました。



この時点でダックンフィールド主任警視が意図的に嘘の証言をしたことは、後に問題となりました。しかし、事件勃発のこの時点ではFA会長は嘘とは知らず、ダックンフィールド主任警視の言葉を信じて、そのまま記者会見で発言してしまいました。

かくして、事件直後には(後にテイラー・レポートで真相が究明されるまでの半年以上もの間)、ヒルズバラの悲劇の原因はリバプール・ファンのフーリガン事件だと誤解されて報道されることになりました。

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事件の後 
15:06の運命の笛の後、両チームはレフリーに命じられて控室に戻りました。この時点では、両チームには何が起こったのか説明されず、試合が中止になるのか否かすら知らされませんでした。ましてや、多数のリバプール・ファンが命を落としていたことなど想像すらできなかったそうです。

ペン3,4にいたリバプール・ファンの中で命を落とさなかった人々は、フェンス越しにピッチの上に降り立ち、倒れている人々の救命活動を開始しました。この日のうちに94人の人が亡くなった規模の悲劇でしたが、救急車の到来は15:30になってからやっと、1台だけ現れたという反応の遅さでした。



救命活動に最も力を注いだのは、生存者のリバプール・ファンだった、という証言があります。中には休み中で応援に来ていた医者がいて、この人の指揮で医学的に素人のファンが生存者を助けるために働いた、という姿もあったそうです。タンカが足りなかったため、スタジアムの広告壁をはがしてタンカにして、倒れていた人を運ぶ姿もあったそうです。

既に息絶えている人々の様子を見て、スタジアム警察のほとんどは何もできずに立ちすくむだけで、女性警官はヒステリックに泣き叫ぶ人もいた、と生存者は証言しています。警察の無能さに怒りを感じたファンが、警察に対して罵倒を浴びせる人もいたそうです。(そして、後ほど警察の隠ぺいがあった時には、「リバプール・ファンは事件後に警官に罵倒を吐いた」という部分のみが証言として採用されました)。 

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遺族と生存者の苦悩の始まり 
この時点では、ダックンフィールド主任警視の虚偽の証言のため、亡くなった人々は「酒に酔って暴動を働いたフーリガン」という容疑がかけられていました。遺族が死体確認をした直後に、アルコール検出テストを強要された。半年後に真相が解明されるまでの間、犠牲者がまるで加害者のように扱われたことは真相で、遺族は「家族を失った悲しみに涙を流す暇も与えられず、犯罪容疑の尋問にかけられた」二重の苦しみを強いられたわけです。

さらに、この時に亡くなった94人のうち、かなり多くの遺族が15:06の時点で既に息を絶えていたことに対して疑問に抱くような事象に出会ったそうです。朝方にやっと遺体と出会うことができた遺族の中には、その時点でまだ遺体が暖かかったという証言もありました。

後の死因解明の法廷では、94人が15:30には既になくなっていた(=救命活動の遅れはなく、15:30の時点では既に手遅れだった)、と判定が下されました。これはヒルズバラ遺族グループが今も、再審を求めて(=ダックンフィールド主任警視の刑事責任を問う訴えと同時に)争っている点です。

ヒルズバラ悲劇で、直接亡くなったリバプール・ファンは96人、うち1人は脳死の後で救命器具下で3日間生き続けた末に、命を絶ちました。最後の犠牲者1人は4年間植物人間を続けた後で亡くなりました。89人が男性で7人が女性、大多数が30才以下の人々で、1/3が20才以下だった。最年少は10才でした。

生存者のうち730人がけがを負い、うち39人がゲートの外でけがを負ったものでした。生存者や遺族の中には、この悲劇がトラウマとなり、早期に命を絶った人も多数いたそうです。この20年の間に発生した自殺のうちのかなりの数がヒルズバラ悲劇に起因していると言われていますが、その数はどの統計にも表れていません。 

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テイラー・レポート
ヒルズバラ悲劇の捜査に、3つの観点からそれぞれの担当者が割り当てられ、事件の解明に当たりました。その中の最も早く決着が出たのはテイラー・レポートと言われる法廷で、「悲劇の原因究明」の任務を背負いロード・ジャスティス・テイラーが捜査に当たりました。

自らフットボール・ファンで、フットボール・スタジアムの事情に詳しいロード・ジャスティス・テイラーが、さまざまな証拠や証言を元に1989年8月(正式版は1990年1月)下した判決は、「ヒルズバラ悲劇の直接の原因は、スタジアム警察のコントロールミス」というものでした。

ペン3,4に集中しないように観客を各スタンドに適切に誘導する任務を警察が怠ったこと、ゲートCを開けた際にペン3,4に行かないように順路を設定すべきたったがそれをやらなかったこと、この二つが直接の原因だった、とテイラー・レポートはヒルズバラ悲劇の原因を特定しました。この時初めて、リバプール・ファンのフーリガン説が正式に晴れたわけです。しかし、テイラー・レポートは「原因究明」が任務であり、警察を裁くことは別の捜査(=ミッドランド警察による刑事裁判)が任務として抱いていたもので、この時点では誰も裁かれぬままでした。

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96人が命を失った事件で、誰も有罪にならなかった
そもそも「リバプール・ファンのフーリガン説」は、ダックンフィールド主任警視の虚偽の証言から発生したものでした。

しかし、テイラー・レポートに続く刑事裁判では、任務に当たったミッドランド警察が、仲間であるサウス・ヨークシャー警察をさばく、という難しい任務だったため、難航しました。当日スタジアム警備に当たった一般の警察全員に対する証言のヒアリングで、「重大な隠ぺい工作が行われた」という証言が、後から明るみに出ました。警官の中には、真相を語った人が多数いたそうですが、しかし、その証言の中で警察の不利になる部分はカットされ、警察に有利になる部分だけが残されて裁判に証拠として提出されたそうです。

これらの隠ぺい工作は、後に、良心に耐えかねた警察官が、メディアに対して手記として暴露したことから判明しました。この時に隠ぺいされた文書は、再審の中でも提出されず、秘匿文書として維持され続けています(※)。2009年にゴードン・ブラウン首相が「事件の全文書の(遺族に対する)公開」を約束し、初めて遺族に真相が明かされるものとみられています。
※この文書は、2011年10月18日に下院にて全面公開が議決されました。(後述)

尚、ダックンフィールド主任警視は事件の後、病気を理由に退職しており、テイラー・レポートで「警察に落ち度があった」と判決が下ったにも関わらず、懲戒免職の罰すらも受けていません。 

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いつ、どうやって亡くなったかも不明
最後の1つは、警察医による死因究明でした。しかしこれは、96人のうち2/3の犠牲者が病院に運ばれることなくスタジアム内の仮設死体置き場におかれたままだった混沌とした状況で、命が絶えた瞬間を特定することは不可能に近い任務でした。

さらに、救命に際して、15:30に唯一かけつけた救急車に乗っていたスタッフが証人として喚問されなかったという、捜査の手落ちも(後から)問題視されました。

結果、「94人は15:30には既に息を絶えていた。全員が、苦しまないで亡くなった」という判決が下されました。

これに対しては、遺族が納得できない事象がありました。つまり、遺族にとって、大切な家族が
@いつ、どうやって亡くなったのか。事件勃発の後の措置は適切だったか?本当に、助けることはできなかったのか?

A警察に非があるのに、誰も有罪にならないのは何故?

この2点がいまだに解決されていません。この真相を求めて、今もヒルズバラ遺族グループは法廷闘争を続けています。

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ヒルズバラ悲劇(20周年)
20年間のうちに、ヒルズバラ悲劇は多くの人々により語られ続けています。遺族グループの闘争も、メディアの注目を集め、数々のドキュメンタリーも報道されました。これらの中では、事件に深くかかわった人々(スタジアム警官、生存者、救急車のスタッフ、救急病院のスタッフなど)の生の証言を受けて作成されたもので、主任警視の虚偽の証言、警察の隠ぺい、などを含め、悲劇の真相と言える内容が暴露されてきました。法廷だけが解決できずにいます。

忘れてはならないのは、事件の真相を知らない外国のメディアが、今だにヒルズバラを誤った観点で虚偽の説明とともに報道する例が後を絶たないことです。

この中の一つ、2009年3月に、合衆国の番組が「リバプール・ファンのフーリガン事件」として報道したことがありました。この話は、合衆国のサポーターズ・クラブの支部からの通告により全世界のリバプール・ファンの耳に入りました。現地の支部が番組に対して正式な苦情を申し入れたのも無視されたため、全世界のリバプール・ファンのボイコットに発展しました。さらに、この番組のスポンサーの中で英国企業だったスポンサーは、ファンのボイコットを受けてスポンサー契約を解消するという結末となりました。 

(ここまでは、2009年のヒルズバラ20周年時点にまとめて、リバプール・サポーターズ・クラブ日本支部のwebsiteに掲載している記事を元にしています。)

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2011年10月18日に全文書の公開が下院で議決
ヒルズバラ遺族グループが22年間戦い続けてきた未解決の問題を解く鍵となる、先の裁判で提出されないまま握りつぶされてきた公文書が公開されることになりました。具体的には、当時の捜査および医学的調査、証言をまとめた全文書を、ヒルズバラ遺族グループが閲覧できるようになったわけです。この動きは、上記の文章にある通り、2年前の労働党政府が公約したものでしたが、その間英国の政府交替を経過し、今回の国会にて正式に提議される動きとなりました。

提唱者となったのはマージーサイド選出の国会議員、スティーブ・ラザラム議員です。ラザラム議員は、2011年4月15日のヒルズバラ・メモリアル・サービスにも出席し、本動議について出席者の前で約束しました。その約束が実現されたわけです。

今回の国会での議決に際して、リバプール市の全ての有名人、特にエバトンのクラブの歴代関係者の協力は大きかったそうです。加えて、ラザラム議員と共に国会でスピーチを行ったアンディ・バーナム議員はエバトン・ファンでした。

ラザラム議員、バーナム議員の両社のスピーチはliverpoolfc.tvのwebsiteで無料でダウンロードできます。

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バーナム議員のスピーチ
アンディ・バーナム議員は、ヒルズバラ悲劇の真相を明かした書籍(Hillsbrough the truth)に記述されている、事件当時の警察の隠ぺい行為、事件直後にメディアが「リバプール・ファンのフーリガン事件」として虚偽の報道をしたこと、特に中でもサン紙が「リバプール・ファンは倒れていた犠牲者のポケットから財布を盗んだ」という虚偽の報道を書き立て、謝罪も拒んでいる真相も語りました。

国会で、22年前の警察の隠ぺい工作とメディアの卑劣なスキャンダル報道が語られたのでした。

スピーチの終幕にバーナム議員は、「1989年4月15日、私はビラ・パークにいました。私の友人の多くがヒルズバラにいました。私たちは、ヒルズバラで起こった事件にショックを受け、友人たちの行方はどうなったかと心配になりました」と、リバプール市の青い半分の人たちがこの悲劇にいかに直撃されたか、を語りました。

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事件の後で寿命を全うせずに亡くなった96人以外の人々
2011年8月10日の報道です。ヒルズバラ悲劇で友人を失って以来、22年間苦しんだ50歳の男性が自殺するという悲しい事件がありました。

この男性は1989年4月15日には、ヒルズバラに行く予定でチケットを買いましたが、たまたま行けなくなったため友人にチケットを譲りました。その友人が96人のうちの一人となりました。この男性は、最後までその時の罪悪感を語っていたそうです。

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ケニーのオートバイオグラフィーのヒルズバラ悲劇のチャプター
ヒルズバラ悲劇の時にプレイヤー・マネジャーだったケニー・ダルグリーシュの最新版のオートバイオグラフィーの記述です。

ヒルズバラには、自分の息子ポールがスタンドにいました。事件の発生を知った時に、ケニーはポールの行方を探し回ったそうです。無事、ポールの姿を見た時には涙が出た、と言っています。「この時、家族の大切さを身にしみて感じた。家族が二度と戻ってこなかった人々の苦しみを考えると胸が痛い」。

リバプールの監督として、ケニーがヒルズバラ悲劇の直後に、怪我をした人々のお見舞いや亡くなった人々の葬式にと走り回ったことは有名な話です。その時の実話も書かれています。「一人ひとりの話にすべて、じっくり耳を傾けた。一人ひとり、全ての家族が大切な人を失って大きな悲しみを抱いていた。」

アンフィールドが特設寺院となった時の様子も語っています。ロンドンから、著名な政治家や有名な人々がこぞって「お見舞い」に訪れたそうです。しかし、それらの人々の多くは「メディアに公開する写真を取るために来ただけ」と痛烈です。「その中で、ニール・キノック(当時の労働党党首)だけは違った。彼は、一人でひっそりと訪れて、心の籠った追悼の言葉を残して、お祈りを捧げて静かに帰って行った。写真も何もなしで」。

更に、ケニーが1991年にリバプール監督を辞任した後に、シェフィールド・ウェンズディから監督として誘われたという「驚くべきエピソード」がありました。ケニーは「リバプール・ファンのことを思うと、ヒルズバラ・スタジアムをホームとしているクラブの監督を勤めることはできない、と言って断った」。

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