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2011/10/24 ブラッドフォード悲劇(英国のフットボール悲劇)

先週(10月18日)に英国の下院を通過したヒルズバラ悲劇の全文書公開の決議の後で、ブラッドフォード悲劇の裁判官だったポップルウェル裁判官(Mr Justice Popplewell)が「ヒルズバラ遺族グループは、ブラッドフォード悲劇の遺族を見習うべき」と問題発言をしたことで、リバプールおよびヒルズバラ遺族グループの支持者だけでなく、そのブラッドフォード悲劇の遺族を含め、イングランド中から非難が飛びました。

ポップルウェル裁判官の発言が的外れだったことは明らかですが、期せずして名前が引用されることになったブラッドフォード悲劇について、簡単に説明します。

悲劇の背景
「ブラッドフォード悲劇(Bradford City stadium fire)」は、1985年5月11日、ヨークシャーのブラッドフォード市にあるブラッドフォード・シティFCのスタジアム、バレー・パレード・スタジアム(the Valley Parade football stadium )で発生しました。当時イングランド3部だったブラッドフォード・シティのリンカーン・シティ(Lincoln City)とのリーグ戦で、試合中にスタンドから火が出て、結果的に56人のファンが亡くなったという悲劇です。更に、265人がやけどなどのけがを負いました。

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その日のブラッドフォード・シティ
この試合は、ブラッドフォード・シティFCが3部リーグ優勝を決めた直後の試合であり、チームとファンにとってはお祝いの日でした。天気も良く、いつもに増して多くのファンがバレー・パレードに詰め掛けました。そのシーズンの平均観客動員数は6,610人でしたが、この日は11,076人が詰めかけ、そのうち3,000人のファンがメイン・スタンドに陣取りました。

火が発生したのは前半40分、まだ試合は0-0の時でした。快晴で乾燥していた空気の中で、屋根が木造という古いスタジアムの中で、スタンドが火に包まれるまで一瞬のことでした。事態に気付いて試合は中止となり、メイン・スタンドのファンがピッチの上や他スタンドに逃れようと走り、他のスタンドのファンが救助に勤めたものの、火の勢いはあまりにも早く、多くの犠牲者を出してしまいました。

発火の原因
公式には、この事件は「原因不明」としてクローズしました。
ただし、真相はスタンドであるファンが煙草に火を付けた時に、床に捨てたマッチの火が消えずに残っており、それがこの悲劇の原因となったということは、ブラッドフォード市民の誰もが知るところです。

事件の調査に当たった地元警察は、発火の原因について間もなく真相に行きついたそうです。しかし、遺族グループが「原因を究明することは、これ以上遺族に苦しみを与えるだけだから、捜査をやめてほしい」と警察に懇願したそうです。恐らく、亡くなった人のうちの一人が付けた煙草だったのでしょう。遺族の気持ちを理解した警察は、「原因不明」のまま事件をクローズすることにしたそうです。

25周年メモリアル
このブラッドフォード悲劇の25周年メモリアルが行われる直前の2010年5月初旬に、BBCでブラッドフォード悲劇特集番組が放映されました。その中で、事件の調査に当たった当時の警官が「原因不明」でクローズしたいきさつについて語りました。

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スチュアート・マッコール
同番組の中で、その時にブラッドフォード・シティの監督を勤めていたスチュアート・マッコール(Stuart McCall)が語った実話は衝撃的でした。地元ヨークシャー出身のマッコールは、ブラッドフォード悲劇の時にブラッドフォード・シティの選手として試合に出ていました。そして、メイン・スタンドには自分のお父さんが試合を見ていたことを知っていました。

事件が発生した後で、マッコールはメイン・スタンドに走って行き、やけどを負ったお父さんを救い出し、お父さんを車に乗せて病院に走ったそうです。試合の姿のままで。幸いお父さんは回復しましたが、マッコールは「家族を亡くした方々のことを思うと今だに胸が苦しい」と語りました。

その後でプロとして名を上げたマッコールは、少年時代の憧れのチームだったリーズ・ユナイテッドから移籍の話が来ました。ところが、移籍の直前に、リーズのファンがスタンドで火を放つという事件を犯し、「ブラッドフォード悲劇のことを思い出し、リーズ入りを断念した」と語りました。代わってエバトン入りし、お父さんの母国であるスコットランド代表選手として活躍したことは周知の通りです。

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