長蘿堂通信2005

2005/12/28 Wed  終わりですね

 2005年もいよいよ終わりですね。最近は公私に多忙で、大晦日の深夜に更新をするという訳にもいかなそうです。今年お世話になった皆様に感謝を申し上げ、あわせて来年以降も倍旧のお引き立てを賜りますようお願い申し上げます。
 終わりといえば、niftyがこのnotebookのサービスを終了するそうです。時代はblogだということですね。表紙に反映できたりして便利ではあったのですが、やむを得ません。あと半年くらいは使えるのですが、「長蘿堂通信」は本年で終了ということにしようと思います。御愛顧ありがとうございました。

2005/08/10 Wed  永蔦雑志に

 「堀内伝右衛門の人柄」を書いたあと、『旦夕覚書』などから材料を拾って『永蔦雑志』に書いてます。
 正直なところ、blogと普通の更新をどう使い分けていくのか、はっきりした方針が立っていませんが、とりあえず気軽に書いてしまえるのがblogの長所です。
 併せて御覧いただき、御示教など賜れば幸甚です。

2005/08/04 Thu  更新のお知らせ

 へへえ、実に久しぶりの更新です。が、その割に大したことはありませんで、四半世紀前の若書きをちょっと手直ししただけです。
 タイトルは「堀内伝右衛門の人柄」といいます。『堀内伝右衛門覚書』のノートみたいなもので、当然目新しい情報はありません。まあ『ろんがいび』はまだ閉鎖してませんよ、というアピールだと思ってください。

2005/05/22 Sun  感性はがき / 絵顔展

 ええ、またまた知り合いの展覧会のお知らせです。って、まるでそのためのサイトになっちゃったみたいですが・・・。
 5月23日(月)〜28日(土)まで、大阪府立現代美術センターの大阪府新別館北館地下1階・展示室Bにて「感性はがき / 絵顔展」が開かれます。どんなことをしてるか、って一言ではいえないので、こちらをお読み下さい。

2005/05/16 Mon  陶房のぎ展

えーっと、また知り合いの展覧会です。
しばしば御紹介しております陶房のぎですが、明日5月17日(火)から国立のギャラリーゆりの木で個展あります。
http://www2.nns.ne.jp/pri/nogi/n010-010.htm
よろしかったらお立ち寄り下さい。

2005/05/08 Sun  理玖ものがたり

 豊岡在住の瀬戸谷さんのサイト「但馬の歴史と文化財」で、長編ノンフィクション「理玖ものがたり」の掲載が始まりました。
 まだ始まったばかりですが、現在も新しい史料の発見・分析に努めておられる方ですから、新知見を盛り込んだ貴重な業績になることは疑いありません。注目していきたいと思います。

2005/05/01 Sun  昌寛の個展

 いやあ、更新はおろか通信も2ヶ月ほっぽってましたね。まあ、間に「永蔦雑志」を始めたという事情はありますが、それにしても・・・。いろいろ忙しくって、どうもすみません。
 で、久々の通信ですが珍しく美術の御案内。以前に同僚だった(といっても大先輩)美術の島田昌寛先生の個展が銀座であります。
 5月2日(月)〜8日(日)
 午前11時〜午後6時30分(最終日のみ午後3時まで)
 四季画廊(銀座1-4-9第一田村ビル3階)
よろしかったらお出かけ下さい。


2005/03/01 Tue  永蔦雑志

 というわけで(ってどういうことだい?)ココログはじめてみました。
 タイトルは「永蔦雑志」。「ななめよみ」で使用していた別号・永蔦で、あれこれと定まりなく書いていこうという趣意です。どういうことになるのやら。

2005/02/26 Sat  blogの時代

 インターネットは日進月歩。どうやら時代はblogである。畏友・赤穂義士史料館長さんも始めている。
 niftyではココログというのを用意している。やってみようかなと思って登録はしたのだが、現在ある日記ツール(長蘿堂通信)やBBS(読者のページ)とどう使い分けようか、決心がつきかねている。

2005/02/18 Fri  大石学『新選組』

 松浦玲氏の『新選組』(岩波新書)を取りあげた際に、大河ドラマの力はさすがである、というような趣旨のことを述べた記憶がある。その放送終了に合わせるように、時代考証を担当された大石学氏の『新選組』(中公新書)が出版された。
 “「最後の武士」の実像”という副題が示すとおり、司馬遼太郎作品に代表されるイメージに対する疑問を提出する視角から著されている。といって、新選組ファンを敵にまわすような性格のものではなく、ファンによる研究の蓄積を真摯に継承しようとする態度が明確に見られ、清々しい印象を与える。別の言い方をすると、主張が控えめで物足りない感じもないではない。もうちょっと踏み込んで言いたいこともあったのではないかと推測する。
 だが、それが本書の瑕になっている訳ではない。本書の何よりの価値は、いちいち出典を確認しながら編年体で精密な通史を叙述している点にある。利用価値は高く、「今回の新選組ブームの最後に生まれながらも、新たな新選組研究の出発点となること」(あとがき)は疑いないと思うのである。


2005/02/14 Mon  『鍾秀記』と『赤穂実記』

 しつこいようだが加西市『赤穂実記』をめぐる話題の追加。
 この書が『介石記』の異本といってよいような内容であることは既述の通りだが、第四巻は不一致の記事が多い。ことに「上使之事」以下は対応する記事がない。
 もっともそれが創作かというと、そうでもなさそうで『赤穂鍾秀記』に同内容の部分が見られる。作者が『鍾秀記』を見ていたか、共通の原典があるのか、焦って結論を出すのはやめておこう。
 ともかくも、『介石記』になくて『鍾秀記』および『赤穂実記』にある主な記事として@切腹を命ぜられた大石が「徒党にあらず」と抗弁するA母への遺言を問われた主税が今更言うことはないと健気なところを見せるB吉良左兵衛配流、などがある。
 ところで『穐寝覚』にはこのうち@Bが見られる。宍戸円喜=都の錦の著作と『赤穂実記』の類似は、こんなところでも確認できるのではある。

2005/02/12 Sat  香円のおちゃめ

 ちょっと追加。泉岳寺僧・香円が都の錦っぽいという根拠(というと強すぎるかな?)もう一つ。
 「泉岳寺僧衆口上書之事」と題された章(第3巻、刊本p63)は『介石記』に対応する部分がある。この「口上」は饂飩屋久兵衛や酒屋十兵衛のそれと並んでかなり広範に流布したもののようで、諸書ほぼ同文なのだが『赤穂実記』には少し他に見られない記述がある。すなわち香円という僧が義士と対話、ことに小野寺十内とは禅問答までかわしている。
 他書に見られない記述であり、これが作者・香円による追加であることは間違いあるまい。このおちゃめな出たがり癖、都の錦の持病といってよい。「だから香円が都の錦である」とは言えないが、「やっぱり都の錦くさい」とは思うのである。

2005/02/12 Sat  香円の正体は“都の錦”か

 引き続き加西市『赤穂実記』の話題。
 前回述べたとおり、都の錦=宍戸円喜の『内侍所』との本文が一致していることには、少なからず意味があるように思われる。色々な可能性があり、断定するには早いのだけれども、『赤穂実記』が都の錦の手になるものだというのも、一つの解釈として成立するのではなかろうか。
 『赤穂実記』全編の著者は泉岳寺の僧・香円ということになっている。ほかに四十六士が預けられた四家の重臣なども参加して作者十四人というのだが、これはどう考えてもおかしい。解説の八木氏はこれを基本的に受け容れる姿勢だが、当方はどうもそう純真にはなれない。この手の“騙り”は都の錦っぽいような気がするのである。
 末尾にこんな文句がある。「誠なる武士の鑑と残す赤穂記」。原題は実の字のない『赤穂記』だったかも知れない。都の錦のことを書いているらしい『三千風形見車』に「自作の赤穂記一巻」を懐中に九州に向かったことが書かれている(岡本勝『近世俳壇史新攷』)ことを想起すると、彼の義士伝の最初は『赤穂記』であった可能性なきにあらず。『内侍所』の参考書にも『播磨椙原』などと並んで『赤穂記』がある。うーん、香円『赤穂実記』=都の錦『赤穂記』だとおさまりがいいなあ。
 直接証拠として筆跡鑑定ができればよいのだが、これは私の手に余る。横田家本の写真の筆跡は、似ているような気もするが、そうでもないかも知れない。もっとも横田家本が原本だと定まった訳でもないので、筆跡が違っても香円が都の錦でないという証明にはなるまい。
 既述の通り、色々な可能性が考えられる。香円を都の錦だとしてすべての問題がきれいに片付く訳でもない。だが、そういう可能性を考えることは無駄ではないと思うのである。
 

2005/02/11 Fri  加西市の『赤穂実記』

 先日古書店で加西市の『赤穂実記』を入手した。これは市内の旧家から発見されたものを平成7(1995)年に市教委が翻刻・発行したものである。
 原本は4冊。内容は一見して『介石記』の異本というべきものと思われる。注目すべきはその書き出し部分。「凡忠義のために其死をかへり見ず」云々の10行分が、『内侍所』(例によって赤堀刊本pp.70-73)とほぼ同文だということである。
 このことが何を意味するのか、軽々に判断はできない。しかし“宍戸円喜=都の錦”の義士伝諸作と『介石記』の密接な関係を考えたとき、この事実に少しく意味の出てくる可能性もないことはないように思われる。

2005/01/29 Sat  都の錦は『易水連袂録』を見たか

 引き続き『江戸文学』31号の川元論文について。
 川元ひとみ氏と私の認識が最もちがうところは、『多門筆記』および浅野の辞世を本物と見るかどうかであるが、氏はこれを疑わずに論を進めているので、当面は触れずにおこう。ついで問題なのは『易水連袂録』を都の錦=宍戸円喜が見ているかどうかである。
 川元氏は見たという立場だが、その根拠はあまり強力ではない。といって見ていないという証明もはなはだ困難ではある。ただ、同人がこれより後に著したとされる『内侍所』に(例によって私が参照できるのは赤堀刊本だけである)参考文献が列挙されている中に『易水』がない。もしちょっとでも見ていたら、権威づけのためにきっとこの一覧に載せただろう。
 都の錦が『易水連袂録』を見ていた可能性は低いだろう、と思うのである。

2005/01/22 Sat  『江戸文学』31号の川元論文

 昨年出た『江戸文学』31号に川元ひとみ氏の論文「『当世敵討武道穐寝覚』について」が掲載されています。
 拙稿「宍戸円喜の述作姿勢」と比べていただくと興味深いかと存じます。私がupしたのは5月のことで、川元論文を拝見して書いたわけではありませんが、もちろん川元氏が拙稿を御覧になったという訳でもない。恐らく氏は拙サイトの存在など御存知ないと思います。私は川元氏(さらには先行する野間光辰氏)の指摘によって『介石記』との比較を行ったのであり、この優れた論文があと半年早く出ていれば、私の下手な作業は必要なかったのです。
 私とは見解の違う部分も多くありますが、その点についてはまたいずれ触れていきたいと思います。とりあえず弁明。

2005/01/01 Sat  謹賀新年

 あけましておめでとうございます。
 昨年は、公私ともに多事で、なかなか更新できない一年でした。今年もあまり見通しは立ってないのですが(苦笑)お見捨てなく御厚誼をたまわりますよう、ひとえにお願い申し上げます。