永蔦ななめよみ(13)
読書日記2003

2003/11/30 Sun  山本博文『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』

 討入300年の去年と違い、今年は忠臣蔵本は少ないかなと思っていたが、佐藤孔亮氏の本に続いて山本博文氏の新著が出たので紹介しておこう。
 「確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!」というのは出版社の付けた宣伝文句であるが、まずもって看板に偽りはない。ウサギのモコちゃんとの対話という形式で書き進められる本書は、わかりやすく、読みやすい。
 中に不穏当ないし不正確と思われる記述がないでもないのだが、ここで瑕瑾を洗い立てるような真似をすることはあるまい。個別の考証もさることながら、本書の価値は何より歴史の見方を教えているところにある。曰く「歴史上の人物の行動は、その時代の社会観念や道徳を下敷きにして見ていかなければならない」(p174)。当たり前のようだが、往々にしてこれを忘れた議論が横行する。「無私の精神は美しいけれど、実はどこに向かうかが大切なんじゃないか」(p276)という留保をつけられるのも、この見識があればこそである。
 歴史の見方、ということで言えば、本書を絶対視してはならないということも付け加えておきたい。そんなことは山本氏にとっては自明のことであろうが、出版社の営業上はそうならないし、読者は山本氏の「権威」とともにこれを受け取る。その場合には本書の“わかりやすさ”が危険な存在になるに違いないのである。

2003/11/29 Sat  佐藤孔亮『「忠臣蔵事件」の真相』

 平凡社新書から『「忠臣蔵事件」の真相』が出た。さきに『古文書で読み解く忠臣蔵』(柏書房、吉田豊氏との共著)を著している佐藤孔亮氏の新著である。
 自ら「いわゆる歴史学者ではない」という佐藤氏であるが、史料の扱いはおおむね公平で、好感が持てる。本サイトの読者諸兄にはお解りいただけると思うが、問題関心や手法が私と似ているところも多く、興味深く読ませていただいた。不当な箇所があると言うよりは、若干踏み込み不足のように思われる点があるが、「研究途上」ということだから、次の御本を楽しみに待つことにしよう。

2003/11/08 Sat  須崎慎一『二・二六事件 〜青年将校の意識と心理』

 二・二六事件を扱った本を読んだのは久しぶりなのだが、実に面白かった。事件後の調書を主たる史料とし、関係者の肉声に迫っていく。
 事件を引き起こす前提となる「青年将校運動」のありようも興味深いが、圧巻は勃発後「友軍」が「叛乱部隊」になっていく経緯と、それをめぐる各方面の混乱ぶりである。もとよりすべての「事実」が明らかにされている訳でもなく、個々の人物について行動と思考を分析していく作業はまだまだ必要だとは思うが、ステロタイプの「皇道派/統制派」の図式でなく、鮮やかに人間を描き出した手腕は見事なものである。
 本書には事件関係者からの聞き取りによる情報が一切ない。もう新たな証言を得られる人は生存していないのであろう。ジャーナリスティックでなく、純粋に歴史学的手法で構成されている。二・二六は「歴史」になったのだなあ、という感慨を深くする。

2003/10/05 Sun  井上智重・大倉隆二『お伽衆宮本武蔵』

 NHK大河ドラマ「武蔵」については毀誉褒貶さまざまであるが、ひとつだけはっきりしているのは世間の関心を集めたということ。そして、その結果として本書のようなすぐれた出版物が世に出たとすれば、それだけで十分評価に価すると思う。
 本書はジャーナリスト(熊本新聞編集室長)井上氏と美術史家(熊本県立美術館学芸課長)大倉氏の合作になる。井上氏の担当する第一部「武蔵はお伽衆だった」も優れた評伝だが、大倉氏の担当する第二部「古文書・書画からさぐる武蔵像」は史料の冷静な取り扱いという観点から、出色の論考である。所説のすべてに同意をする訳ではないし、ろくな吟味もせずにそうした態度をとることは、むしろ著者方の真摯な姿勢に対する冒涜であろう。今後武蔵を論じようとする者にとっては、魚住孝至氏の『宮本武蔵』とともに、水準点となると思われる。
 ところで、書名にもなっている「お伽衆」としての性格だが、私は、武蔵に限らず近世前期の武芸者=兵法者には共通のものであると考えている。「道場」が成立し、藩校での教授システムが確立していく近世中期以降は事情が異なるだろうが、それ以前に兵法者が大名家で地位を得るとすれば、大名の“家庭教師”ないし“御学友”以上のものではない。幕府でいえば柳生宗矩・小野忠明しかり、北条氏長しかり、小笠原丹斎しかりである。こうしたことは、むしろ武芸史研究のサイドでもっと明らかにしておく必要のあることであるが、これを武蔵の特徴とするとすれば少々ニュアンスが異なるであろう。

2003/09/20 Sat  高木昭作『将軍権力と天皇』

 高木氏の最新論文集である。副題に「秀吉・家康の神国観」とあるように、近世の神国観を取り扱った論稿が集められている。こういう問題が正面から取り扱われるのは20年前では考えられなかった。ようやくそういう時代になったかと、感慨を深くする。
 論文集の常として、全体のまとまりは強くない。研究蓄積の薄さもあって、近世の神国意識の全容を明らかにしたという訳にはいかない。また、方法上の問題も議論を深めていく必要があるだろう。
 さしあたっての感想。本書でかなり大きな位置を与えられている慶長18年吉利支丹追放令に関して言えば、単なる禁止のためなら、あれほど難解な文書は必要なかったはずである。詳密な理論を明らかにする以上に、理論武装を必要とした事情を知りたいと思う。
 また、近世の神国観と中世の神道説の連続を言うのはよいとして、その差異を明らかにする必要があると思う。特に、「国体」意識を問題にするならば、「神国」と密接にからんだ「武国」認識を解いていかなければならないだろう。
 などと勝手なことを言うけれど、もとより本書の価値を貶そうとするものではない。「神国」意識に科学的なメスを入れた記念碑的な著作に相違ないのである。この仕事が近世史研究の中で孤立したものに終わらないことを、切に願っている。

2003/02/15 Sat  志田義秀『俳句と俳人と』

 最近は「進歩」問題を中心に俳諧関係の本を拾い読みしています。田中善信氏の『芭蕉の真贋』から、「進歩」=橋本平左衛門説の出所が志田義秀氏『俳句と俳人と』(昭17、修文館)だと知ったのですが、近所の図書館になく、日本の古本屋を通じて購入しました(本体2500円)。内容はもちろん俳句全般にわたるわけですが、「赤穂義士の俳人」「子葉と進歩」の2篇で5分の1くらいを占める計算で、内容も豊富でしたから、決して高い買い物ではありませんでした。考証の根拠が明示されているので、思考のあとを追うことが可能。蜆川心中については『江赤見聞記』のみによっているので、もし志田氏が佐々小左衛門の書状を知っておられれば、橋本平左衛門説には立たなかっただろうと思われます。「進歩」が川崎氏を称し岡山居住であったらしいことなど、後の研究では触れられていない情報があり、きちんと研究史をおさえることの重要性を改めて感ずる次第です。
 それにしても、こんな本があまり出回っていないのはいかにも残念。どこかで文庫化しないものでしょうか。