永蔦ななめよみ(12)
読書日記2002

2002/11/30 Sat  野口武彦『幕府歩兵隊』

 最近は幕末に関する著書の多い野口氏の新作である。これがまあ、滅法おもしろい。
 主役は表題の通り幕府歩兵隊。これまでの「輝かしい勤王維新史/哀切な戊辰戦争史」では「その他大勢・・・いいとこ斬られ役・・・からみ」に過ぎなかった存在。これにスポットを当てようとするのだ。

 関心は軍事である。その軍事に対する関心も、ほとんど銃器と訓練という要素に集中していく。唯物論的とも言えるし、荻生徂徠的とも言える軍事観である。
 この観点から、時代の変化に対応できぬ旧弊な上級武士たちが、ほとんど喜劇的に語られる。幕府の軍政改革をめぐるドタバタ、赤備え井伊家の凋落。専門書と比較にならぬほどわかりやすい銃器の説明が、みごとに効果を発揮している。

 もっとも、面白いのは主としてこうした脇筋のほうで、主役=歩兵隊についての記述はむしろあっさりしている。もちろん史料的な制約によるのであろうけれど、それだけではあるまい。今やゲベール銃なみに古色蒼然たる「プロレタリアート」概念で括ってしまったところに問題はないだろうか。ファンレターを書こうと思ったにしては、その相手への思い入れはさほどでなかったような気がする。

 もちろんこのことが本書の価値を下げる訳ではない。幕末維新史・近代軍事史に関心をもつすべての人にお勧めできる。著者自ら言うとおり「学説でもなければ論考でもない」歴史叙述の一つのスタイルである。

2002/06/06 Thu  山本博文『鬼平と出世』

 また面白い本が出た。『週刊現代』の連載だったそうだが、掲載中には読んでいない。たぶん、この形でまとめて読んだ方が興味深いだろう。
 第一部〈「鬼平」長谷川平蔵と好敵手たち〉では、『よしの冊子』を主材料として、長谷川宣以の人物像に迫る。第二部〈森山孝盛と武士の出世〉では、長谷川の後任・森山孝盛の自伝『蜑の焼藻の記』を主材料に、旗本が昇進していく様子が活写される。この二本の間の〈「好色将軍」家斉と“乳母問題”〉では、あまりほめられない公方様の生活が描かれている。
 それほど立派でもない武士たちの行動は、三面記事かホームコメディの趣がある。しかもそれが「史実」だときてはたまらない。まずもって事実は小説より何とやら、ということだろう。著者の彼らに向けるまなざしも概して暖かい。黒鉄ヒロシ氏の挿し絵ともども、なんだかほのぼのした気分になれる1冊である。

2002/04/07 Sun  将基面貴巳『反「暴君」の思想史』

 書店でまず目にとまったのは著者の珍しい名前だった。外国で活動している政治学者で、西洋中世の政治思想史が専門とのことである。
 著者の問題意識は、現代日本の政治状況から発している。そしてその原因を日本人の政治に対する態度に見いだし、その起源として江戸時代の政治思想から検証しようとする。その際に、いわば判断基準として、専門である西洋中世思想との対比を行うという、興味深い作業を行うのである。

 現代日本の政治状況の分析は、最近のワイドショー的コメンテーターの非論理と異なり、原理原則を大切にしたもので大いに首肯できる。
 しかし、本論部分は政治文化論としては興味深いものの、政治思想史としては少々問題があるだろう。本論で話題にされているのはおもに二点。孟子の放伐論が日本儒学であまり受け容れられなかったことと、「諌言」が批判思想として評価できないという点である。細かい議論に立ち入るのは著者の本意であるまいから、私も遠慮しておこう。これらはもちろん日本思想史の専門家が取り上げた問題であるから、まったく見当はずれとは言えないが、自分の論理に適合するようにやや偏った扱い方になっているように思われる。
 西洋中世と江戸時代の対比が妥当だろうか。わが国の反権力的思考を考えるのなら、もっと適当な思想家・著作があるのではないか。思想史的に正しい位置づけをするというのは、「過去の思想を渉猟する骨董趣味」とは異なるが、「純粋に学問的作法にのっとって」行われるべき事柄だろうとは思うのである。それを省略するとすれば、著者が批判する安易な「日本型民主主義論」と大差ない水準にとどまるのではないか。

 現代日本の政治的枠組みは、西洋由来の物であり、それは西洋で発達した原理に従って考えられるべきである。その点で著者の主張はおおむね正しい(と思う)のだが、そのことが思想史認識の正しさを証明するものではない。逆に思想史認識の問題点が、著者の政治問題に関する意見にまで及んでいるように見られるとすれば、これも不当だろう。「共通善」思想に立脚する「国民社会」の建設が必要であるという理念は、思想史分析から帰納されたものではないのだから。
 

2002/03/30 Sat  松尾剛次『太平記 鎮魂と救済の史書』

 『太平記』についての本だが、著者の主張は副題「鎮魂と救済の史書」に遺憾なく示されている。

 第1章「後醍醐天皇の物語としての『太平記』」では、『太平記』全巻を通じての主人公が後醍醐天皇であることが論証される。あたりまえ、ではない。後醍醐天皇は途中で死んでしまうのだが、著者はそのあとも天皇の怨霊が影の主人公だと喝破するのである。
 戦いの勝者は足利氏である。しかし第2章「登場人物から読む『太平記』」では、楠木や新田などの敗者の怨霊を鎮める存在であるという側面が重視される。
 第3章「『太平記』の思想」では従来指摘されていたところと異なり、一貫して儒教的道義論と仏教的因果論が併存していることが論じられる。特に、近代的な仏教理解では見落とされがちな「敗者の怨霊を鎮魂しなければ、怨霊に害をなされるという、仏教的な因果応報観」に注目していることが、本書の構想では要になるであろう。
 そして第4章「『太平記』の作者と作品論」において、恵鎮を中心とするグループが、怨霊の鎮魂を目的とする室町幕府の要請で編んだ、準正史であるという性格が明らかにされる。

 要するに、『太平記』が鎮魂の書であるということだが、文章に説得力があり、提示されている構想がはなはだ魅力的である。あまり見事でかえって不安を感ずるくらいだが、細かい論証は参考文献に挙げられた論文においてなされているのであろう。それを追跡するのは今の私の任ではない。ただ、近世思想に対する『太平記』の影響力を考えた場合(ななめよみ若尾政希『「太平記読み」の時代』)、その成立事情や思想的性格は十分に考慮されるべきものであることは間違いない。今後の私にとって、貴重な導きの糸になってくれるはずである。

2002/03/28 Thu  山本博文「『葉隠』の武士道」

 本書は三部構成になっている。第一部“鍋島家の家風”で『葉隠』の背景となっている藩主中心の佐賀藩史が描かれる。続いて第二部“武士を取り巻く世界”で元禄期の武士の気風が示される。そして第三部“『葉隠』の「思想」”で山本常朝の思想が検討される。

 もとより大変にすぐれた著作であることは認めた上での感想だが、第一部はたいへん面白く読めるのだが、第二部になると違和感を覚える箇所が出てきて、第三部になるとさらに顕著になってくる。この居心地の悪さの所以を考えながら読み進めると、「我々は、『葉隠』を決して評価してはならない」という結びの一文に出会い、わかったような気がした。
 本書の性格は、「はじめに」であるように『葉隠』をすぐれた思想書として評価する立場へのアンチテーゼだったのである。ただ、それは私が山本氏に期待したものとは異なっていた。道徳の先生として「採点」するのではなく、歴史家として「評価」してほしかったのである。もちろんその意味における「評価」も本書中に見られるのであるが、しばしば道徳学者的判断に引きずられていることも否定できないように思われるのである。
 本書の帯には「それは老人のたわ言だった」という刺激的・挑発的な一文が記載されている。「老人のたわ言のように思われる」(P169)という著者の語を、営業的な理由から断定的に改変したとすれば、こういうスタンスも編集サイドの要請だったのかも知れないとは思う。しかし、私としては太平の世に「武士」であろうと悪戦苦闘した山本常朝の思想的営為は、正当に評価されなければならないと考えている。
 この点は、テキストの理解や歴史事象の解釈において、微妙なニュアンスの違いとなるのだが、現時点でそれを本格的に展開するのは困難である。実を言えば、当初「ななめよみ」で本書を取り上げようとしながら挫折したのもそのためである。かなり細かい議論に陥ってしまうことが予想できるのである。

 批判的な言辞を並べたようだが、問題関心が近いために微妙な違いが気になるためである。いずれにしても『葉隠』礼賛の立場をとる論者ばかりではいけないと思う。貴重な1冊であり、広く読まれてほしいと願っている。

2002/03/11 Mon  田中彰『吉田松陰 変転する人物像』

 明治維新史研究の泰斗・田中彰氏の新著『吉田松陰 変転する人物像』(中公新書)は、タイトル通り、吉田松陰がどのように評価されてきたか、その変遷を追ったものである。中核部分(第1章〜第3章)は、およそ30年前に書かれた「吉田松陰像の変遷」(『吉田松陰』日本の名著31解説)を基本にしており、私も確かに読んだ記憶がある。もちろん当時のままではなく、その後の研究成果が取り入れられているのだが、それにしても、いささかも古びた感じがせず、きわめて現代的な示唆に富んでいる。
 近代の松陰像は、「革命家」と「愛国者」との間を揺れ動くものであった。宮澤誠一氏の『近代日本と「忠臣蔵」幻想』にある「意味の争奪戦」とほとんど同じ構図である。最初はその類似に驚いたのだが、落ち着いて考えてみればむしろ当然なのかも知れない。個別に見ていたのでは気づきにくいが、忠臣蔵も松陰も、より大きな思想戦の局地戦の戦場に過ぎないのだろう。その双方で大きな役割を果たしているのが徳富蘇峰であることは興味深い。
 「戦後民主社会の価値観の多様性」を反映した「相反するようなさまざまな松陰像」の創出も、「忠臣蔵」解釈をめぐる状況とオーバーラップして見える。「時代や場所を問わず、あるいはイデオロギーの違いを越えて寄せられた礼賛の数々」(本書において海原徹氏の著作から引用)は、“松陰幻想”の存在を証明している。“松陰幻想”という意識をもって見た場合、第5章に示されたヒューマニスト・松陰像は新たな幻想の創出につながりかねない危うさを持っている。もちろん著者自身はそのことを意識しているのだが(あとがき)、この手の解釈は一人歩きをする傾向があるので注意を要する。
 吉田松陰という人物が魅力的であることは疑いない。しかし、その魅力をどう受け取り、どう伝えようとするのか。そのことがどういう現代的意味を持つのか、常に検証していく必要があるだろう。


2002/03/10 Sun  佐藤賢一『ダルタニャンの生涯』

 不定期日記をはじめた理由の一つは、「ななめよみ」に載せようかと思っている本がたまってしまったことである。軽い筆致とは思っても、HTML文書を作ろうと思うと、どうも構えてしまう。もうちょっと気楽に書くために、日記ツールを利用しようと考えたのだ。

 という訳で、今日紹介するのは佐藤賢一『ダルタニャンの生涯』(岩波新書)。著者はヨーロッパを舞台にした歴史小説を書く小説家だが、本書はノンフィクション作品、文豪デュマのおかげで「世界一有名なフランス人」となった男の伝記である。
 「ちょっと成功した地味な一軍人にすぎない」実在のダルタニャンが、どうして「世界一有名なフランス人」になったか。本書はそういう問題関心のもとに書かれている。これは私にとっても興味深い。なぜなら、田舎大名の一家老が小規模な戦闘で一旗本を殺害しただけで日本最高の英雄として扱われている事を知っているからである。
 それはさておき、本書の内容。単純に言って、面白い。著者はデュマの作品を引きながら、史実との相違を示す。虚構を排したからといって興がそがれる訳ではない。フーケ事件で示した義理堅さに見られるように、史実のダルタニャンもまた十分魅力的な人物なのだ。17世紀絶対主義フランスの政治・社会の様子も興味深く、すぐれた歴史叙述となっている。
 もちろん内容の検証は必要であろうし、西洋史は私の任でないのでそうした部分に踏み込む能力はない。だが、平易な叙述で知的好奇心を刺激する楽しい1冊であることは、私の責任の範囲で言うことができる。