永蔦ななめよみ(11)
宮澤誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』

 第1回の「ななめよみ」で宮澤氏の『赤穂浪士 −紡ぎ出される「忠臣蔵」』を取り上げさせていただいた。2年あまりの時をおき、その続編という性格をもつ『近代日本と「忠臣蔵」幻想』が刊行された。いや、「あとがき」によればもともと赤穂事件の史実よりも忠臣蔵伝説の方に関心があったそうだから、こちらの方が本編なのかも知れない。

 近代における「忠臣蔵」の意味を考えるという、困難にして魅力的な課題に取り組む宮澤氏は、分析の視角として一つの図式を提示する。すなわち“赤穂事件を近代の天皇制国家の発展に貢献しうる「物語」に仕立てようとする人たち”と“それに反対し赤穂浪人の「忠義」を批判・解体しようとする人たち”の思想的対立、「意味の争奪戦」と換言される思想闘争である。
 この図式により、維新期から太平洋戦争期にかけての、近代の「忠臣蔵」観の諸相が明確に描出される。数多の分野に対する広い目配りと、その時々の社会事象・思想状況との有機的な理解により、近代における「忠臣蔵」文化を総合的に掌握することに成功している。赤穂事件の研究史の整理としても貴重であるが、それ以上に近代文化史の一つの素描として高く評価されるべきであろう。

 ただし、戦時中までに比較して、戦後の部分がいかにも手薄になっているという感じは否めない。これは終章に押し込んだことからくる分量の問題だけではなさそうである。恐らくは、あの「意味の争奪戦」という分析視角が明確でなくなっているためであろう。そのことが“今や、・・・「忠臣蔵」幻想から解放される時期に来ている”とする、ある種オプティミスティックな結論に結びついているように思われるのだ。
 著者の意図は忠君愛国に寄与する“「忠臣蔵」幻想”の復活を回避したいという点にあるのかも知れない。そうであるならば、なおのこと“「忠臣蔵」幻想”の死亡を宣告するのではなく、その恐るべき生命力を認め、動向を監視するべきでなかったか。

 恐らくそれと関係するのだが、「忠臣蔵」幻想という概念が必ずしも一貫していない。この概念は、争奪戦を演ずる双方にかかっていたはずなのに、行論中ではしばしば“天皇制国家の発展に貢献”させようとする立場についてのみ用いられているように感じられる。宮澤氏の主張が“「忠臣蔵」を忠君愛国の物語だとするのは「幻想」である”ということに止まるのであれば、それでもいいだろう。しかし当初の問題関心からすれば、歴史上とるに足らない小事件を国家の存立に関わる大問題にしてしまう「何か」を追究していくことが課題だったのではないか。「忠臣蔵」には、意味を奪うだけの価値を持つ「何か」があったのである。「何か」こそが共同幻想の正体であろう。しかしその「何か」はほとんど明らかにされないままであるように思われる。

 終章における「歴史と文学の関係」への言及にも異論があるのだが、これは特殊「忠臣蔵」だけでなく、より一般的な問題であるから、深入りしないでおこう。総じて終章についてはいまだ十分練られていないという印象がある。しかし、それは本書の欠陥であると言うよりも、中核部分の完成度の高さを証明するものであろう。今後「忠臣蔵」を論ずるに逸すべからざる一冊であることは疑う余地がない。

宮澤誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』青木書店 2001.11.20 2800円