永蔦ななめよみ(9)
批判の論理としての「滅私奉公」
柴田純『江戸武士の日常生活』と百瀬明治『怪傑!大久保彦左衛門』

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 柴田純氏の『江戸武士の日常生活』は、好著である。「はじめに」で示された@通俗化されたイメージから自由になりA一般武士の立場からB日常的行動から、近世武士の思想なり行動なりを考えていく、という姿勢には共感できる。特に第2章「武士の生活を考える」では、紀州藩家老・三浦為時と彼に仕えた儒医・石橋生庵の日記を通して江戸前期の武士の日常生活を活写しているのは、そうした方法の所産であり、貴重な業績と言うことができよう。
 しかし、そうした日記の分析を「新たな武士像をさぐる」という本書全体の目的に結びつけていくことは、必ずしも容易でないように思われる。念のために言っておけば、私は柴田氏の目論見を否定する者ではなく、むしろ近い筋道で物を考えたいと思っているのだが、それだけにこの方法の効果は慎重に検証されるべきだと感ずる。第一に、取り上げられる人物はきわめて限定されざるを得ず、個性をどこまで一般化してよいかという難問がついてまわる。さらに、日常的行動からとは言い条、精神的な問題を日記の記述から浮かび上がらせることに困難はつきまとうだろう。
 もちろんそうしたことを柴田氏は百も承知であって、第3章「武士の精神をとらえなおす」において、それを補うべく様々な武士の生き方を考える。そこでのキーワードは「滅私奉公」であった。氏の議論では、「滅私奉公」が近世武士道の中核にあるという認識が一般的だという前提に立って、必ずしもそうではないということの論証に力が入れられる。

 このあたり、少々の違和感を感じないわけにはいかない。「滅私奉公」一色で近世武士を理解すべきでないという所説に反対するのでは毛頭ない。「滅私奉公」というスローガン自体がいかにも「近代」的である(モダンだという意味ではなく、19世紀後半〜20世紀前半の「近代」日本の歴史的ありように相応したという意味で)。しかし、確かに「滅私奉公」的な価値意識は近世武士の言説の中に見られる。これを一般的なものとするのではなく、「滅私奉公」的価値意識も、近世の中に正当に位置づけられる必要がある。
 柴田氏の場合、「滅私奉公」は一方的に上位者に都合の良い、体制的な、無責任な思想であると規定されている。そして、身分変動が少なくなって武士社会が活力を失ったことと関連して理解されているようである。しかし、この理論的前提は正しいのだろうか。福沢諭吉のもたらした“固定した身分制”論に対するアンチテーゼを提供した新見吉治の疑問は幕末由来のものであった。それを補強した藤井譲治氏の説もむしろ中期以降について述べられたものである。それが、いつの間にか前期と後期の違いとして議論されている。どうもに単純には乗って行けない。

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 以上のようなことを考えていたところ、もう1冊の本に出会った。百瀬明治氏の『怪傑!大久保彦左衛門』である。歴史作家の読み物であるから当然とも言えるが、非常に面白い。つい電車を乗り過ごしてしまったことを白状しておこう。
 もとより学問的な著述ではないが、いわゆる小説でもない。講談の主人公と実在の旗本との間の空白をうめようとする貴重な仕事である。この際、伝説と史実の線引きに関する意見の違いは措いておこう。この本は私に近世前期の「滅私奉公」論者・大久保彦左衛門の存在を思い出させてくれたのである。
 岩波の日本思想体系が『三河物語・葉隠』を1巻に収録したのは、単なる偶然ではない。両者はまさに「滅私奉公」的価値意識を共有している。そして、彦左衛門の「滅私奉公」的な価値観は、必ずしも“体制的”の一語で割り切れるものではない。もとより“反体制”でもないが、一種の体制批判的役割を担っていたことを百瀬氏は主張する。これは、恐らく『葉隠』にも共通するだろう。譜代を軽んずる将軍を嘆く彦左衛門と、当世風に流れ行く佐賀藩を憂える常朝と、批判の視点は似ており、身をおく価値意識も近くなる。百瀬氏は譜代冷遇をリストラに喩えているが、まあ解雇まではされていないので窓際族といったところか。言うなれば「滅私奉公」(という言葉は使わないとしても)は窓際族の生み出した価値意識なのではないか。

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 こうした議論を詳密にしようとすれば、恐ろしく複雑な手続を必要とするだろう。今はとりあえず思いつきを文字にしてみよう。
 必ずしも世に容れられていないと感ずる武士がいる。彼の不満は、今の有力者に向かう。彼らは、死の覚悟を持っていない、私利・私欲にとらわれた、武士にあるまじき輩である。俺は違う、いつでも御主君のために命を投げ出す覚悟がある。しかし、その自分が軽視されている。ああ嘆かわしい。
 客観的に言えば、負け犬の遠吠えかも知れない。しかし、そこで批判のために持ち出された「滅私奉公」的価値意識は、武士がいかにあるべきかという理想像にてらした場合、十分な説得力を持った。“殉死”が「かぶき者」の心性と通底することは、既に山本博文氏が明らかにし、“赤穂義士”にも同様の要素を指摘されている(『殉死の構造』)。現状に批判的な人間が持ちだす「滅私奉公」は、ある意味で「正論」であり、誰もがその言い分を認めざるを得なかった。恐らく、この手の議論は幕末維新期にも顔を出すのである。
 こう考えると、「滅私奉公」が、上位者に好都合な体制的な言説であるという理解は、一面的にすぎるように思われる。もちろん反体制ではないが一定度体制批判的な役割を持っていたのであり、『葉隠』が藩内で歓迎されていなかったのも、そういう側面から考えた方がよい。
 無責任な、というのは柴田氏の慧眼だろう。「滅私奉公」は本来体制批判の論理である。あくまで批判する人間が無責任なのは、現代の評論家諸氏を見れば明らかである。批判の論理に留まる限り、無責任な「滅私奉公」は健全だったとも言えるのかも知れないが、これを体制に取り込むのは比較的容易であった。「軍人勅諭」や「教育勅語」はその実現である。しかし、二・二六事件を考えれば、体制批判的要素は残存していたというべきかも知れない。

 いささか風呂敷を広げすぎたが、これも無責任な論評の場なればこそである。もとより現時点で論証できる訳ではないが、この思いつきを今後活かしていくことができるだろうか。ともかくも、こういうことを考える機会を与えてくれた二人の著者に感謝しておく。

柴田純『江戸武士の日常生活』講談社選書メチエ、2000.11.10、1600円
百瀬明治『怪傑!大久保彦左衛門』集英社新書、2000.12.20、700円