永蔦ななめよみ(7)
子安宣邦『方法としての江戸』

 近世思想について数々の業績をあげてきた著者の論文集であるが、近世よりは近代に重点が置かれているのが特徴と言えよう。本書は三部構成になっており、Tでは儒教の問題、Uでは日本思想史をめぐる問題、Vでは日本語をめぐる問題が取り扱われる。各章は独立した論文として、興味深い考察が示されている。もっとも「ななめよみ」ではあまり個々の論点に深入りせず(というより私にその能力が欠落しているのだ)、全体の構想についての感想を述べてみたい。
 本書全体のねらいは、書名にもなった巻頭論文「方法としての江戸」に端的に示されている。要約することが原著者の意図をねじ曲げかねない危険性は承知の上で、私なりに捉えなおさせていただくならば、「方法としての江戸」とは、江戸に視座をおくことによって近代的思惟を相対化し、近代的偏倚を克服しようとする目論見であると言えよう。この方法によって優れた成果が挙げられることは、前著『江戸思想史講義』(岩波書店、1998)で証明済みと言ってよい。前著でも「方法としての江戸」は(もちろん改稿されているが)序章の役割を果たしており、一連の仕事であることを示している。
 前著では江戸思想が対象だったが、本書では近代思想が対象となっている。当然「方法としての江戸」あるいは‘江戸という方法’の有効性がより一層発揮されることが期待される。しかし、読後の感想を率直に言うなら、方法の効果はあまり見えなかった。というのは、つまらなかったという意味では毛頭ない。一本一本の論考は刺激的で、とても楽しかった。しかし、それは‘江戸という方法’に由来する訳ではなさそうなのだ。そのことを最もよく示すのが「近代ファンタジーの成立の条件」である。宮沢賢治を論じたこの論文は、初出が『江戸の思想』誌でないということもあって、ほとんど江戸には言及されない。私はここで「方法としての江戸」を疑うようになってしまった。さらに、第V部に登場する江戸思想家・本居宣長は、「日本語」という実体を措定した近代的思惟の持ち主として描かれ、江戸に視座を移すことによって近代を相対化したというよりは、江戸でも近代でもない視座から見たというほうが正確なように思われる。
 もっとも、翻って考えてみれば、これは本書で初めて登場したことではなく、ここまでの子安氏の仕事の一貫した方法だったのかも知れない。方法論について述べるとき、常にポスト構造主義の用語を用いていたことはその現れであろう。ただ、そうなると、視座は‘現代思想’だったのではないだろうか。江戸思想というのは対象規定であり、方法規定ではなかった。江戸を視座として近代思想を見ている訳ではなく、現代思想の視座から‘江戸を対象とした近代の言説’を批判的に捉えかえした、というのが、子安氏の本当の方法だったように思われる。
 それがいけない訳では、もちろんない。しかし‘近代思想’の把握が‘江戸思想’を対象としたときのような鋭さを持たず、存外平板なように、私には感じられる。江戸を対象にした近代の言説は、当然近代的な構造を持っている訳で、そこからの脱・構築は近代思想に対する批判たりうる。しかし、それはもとより近代思想全体ではないのであって、近代的思惟の全体を批判的にとらえるためには効果的に機能しないように思われるのである。まして、言語問題に取り組んでいくのであれば、前近代であっても言語に依拠して思索しているという事情があるので、「近代/前近代」という対抗軸自体がさほど意味を持たなくなる。それでもなお有効に働く「方法としての江戸」は存在するのだろうか。
 私自身の個人的な関心は「対象としての江戸」にあるので、氏の方法がどちらの方向に向かっていっても構わないのではある。ただ願わくは、今後とも江戸思想について述作を続けていただき、御教示を賜りたいと念じている。

子安宣邦『方法としての江戸』(ぺりかん社、2000.5.1、\2700)