永蔦ななめよみ(6)
尾藤正英『日本文化の歴史』

 表題からいわゆる日本文化史概説、すなわち「政治」史・「経済」史等と並列される「文化」史分野の教科書(端的に言うなら文化遺産のカタログ)を期待するなら、間違いである。本書「はじめに」によれば、「日本文化」とは「歴史的に形成されてきた日本人の生活や思考の様式の全体」をいう。“教科書”が該分野研究蓄積の精髄(または滓)を集めたものだとすれば、「日本文化」に関する歴史的考察が十分行われていないという問題意識から出発している本書が、“教科書”的たりうるはずがない。すぐれて刺激的または挑発的な「日本文化」の歴史的考察の「一つの素描」なのである。

 「一つの素描」であるというのは、総花的な概説ではないという意志表示である。目配りは文化事象(ということは歴史事象)全般にわたるとしても、縦糸を一本通す必要があった。その縦糸に選ばれたのは、日本人の社会意識である。
 戦国期を境とする二分論、基本的社会集団の「氏」から「家」への変化、神仏を基本とした「国民的宗教」論など、きわめて魅力的な(それだけに反発も予想される)議論が次々に展開される。なにしろ該博な知識を背景にした大胆な議論である。個々の論点について深入りするのは、不勉強の私には荷が重い。軽々しく日本の文化的伝統に言及するようなことは慎まなければならないとの念を新たにする。

 本書は決して政治的著述ではないのだが、近年の状況の中では、すぐれて政治批判的な性格を持つ。共同体的社会の伝統は権力の独占を認めず、ために歴史上の日本人は権威に従順ではなかった、というのが本書の基調である。西洋化はこの伝統を変化させた、西洋化の弊害を直視することが必要だ、という主張は、「日本文化」を考察しようとする立場からは、至極正当であるように思われる。
 しかし、西洋で発達した民主主義の理論に慣れた立場では、“近代化=西洋化=善”というほど単純でないとしても、前近代(日本)が近代(西洋)より優れた要素を持っていたことは、容易に認めがたいであろう。まして、国家主義的な立場からすれば、自分たちの考える国家像が日本の文化的伝統に反するということは絶対に容認できない。本書で示された見解は、どんな政治勢力にとっても一種の危険思想なのである。断章取義的に「日本の文化的伝統は民主主義に適合的である」とするならば、保守勢力に近いようにも見えるが、もちろん「文化的伝統」の内容も「民主主義」の理解も一致しない同床異夢である。
 もっとも、あえて「誤解」して我田引水する人の出る恐れもある。それを回避するためには、伝統的思考様式と西洋文化の関係について、もっと精密な議論が必要であろう。だが、それを本書に求めるのは筋違いというものだ。理論的見通しを立てるのがこの本のねらいであり、本当の議論はこの次に行われるべきものである。ただし、読者がよって立つ価値観を揺るがすような精神的試練に付き合ってくれるかどうか、保証の限りでない。

 思い起こされるのが(といっても私の生まれる前の話だが)封建思想の再評価を目指した「封建倫理の問題を中心として」を歴史学研究会で発表した尾藤氏が、周囲の無理解に苦しんだことである。半世紀近い歳月を経て、原点に戻ったと言えるのかも知れない。狭い学界ではなく、広く読書界に向けて発信したこの本がどのように受け取られるのか、心配でもあり、興味深くもある。

 門下生を称しては御迷惑だろうが、尾藤先生の学恩を受けた身、不肖の弟子の読書レポートである。「わかってないな」と笑いながら、Cくらいはつけていただけようか。

尾藤正英『日本文化の歴史』(岩波新書、2000.5.19、\700)