永蔦ななめよみ(3)
小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』

 『葉隠』研究の第一人者小池喜明氏は、これまでにも多くの論考を発表しているが、講談社学術文庫の1冊として上梓された本書は、現時点での到達点を示すものと言ってよいだろう。本書で初めて示された見解は必ずしも多くないようではあるが、氏の『葉隠』理解を追体験するには好適である。
 小池氏の方法は、『葉隠』テキストの字面だけを追うのではなく、山本常朝はじめ登場人物の生きた足跡を追い、その人間像に即して理解をしようとするものである。多くの考証に裏打ちされたその「読み」はまことに的確であり、感服するほかはない。
 その上で、氏は常朝の思想の中核は「武士道」よりは「奉公人」道にあると喝破し、泰平の世の武士のありようを示していく。『葉隠』の「武士道」を戦国武士の生き方と同一視するような見解に比べれば、はるかに説得力があり、読者をぐいぐいと引き込んでいく。

 しかし、そんなに簡単に小池『葉隠』世界に入り込んでいいかどうか、ちょっと躊躇するところがないでもない。例えば、氏の「武士道」概念がどうも一定していない点である。本書の冒頭には「武士たる者の心得、覚悟についての言説の体系」という仮の定義が行われているが、後になると戦国の遺風である荒々しい思潮に限定されてしまう。そうかと思うと「武士道」が「武道」と「奉公人」道に分かれていくというような説明が行われることもある。「武士道」と「武道」の使い分けも含めて、恣意的に扱われているような気がしてならないのである。
 この問題は、単に語義だけのことではない。『葉隠』に「武士道」と「奉公」の2系列があることを指摘したのは相良亨氏であるが、それは「武士道と云は死事と見付けたり」の句を“滅私奉公”から切り離すという意味を持っていた。相良氏は和辻哲郎氏の「献身の道徳」論を批判的に継承した訳だが、それを承けた小池氏の議論には「武士道」を「奉公」に従属させるという逆コースが予定されている。「没我的献身」の強調はその帰結であろう。もちろん、事実がそうであるならば仕方のないことであるが、氏の優れた考証が見出している方向はそこに向かってはいないと思われる。「奉公」には確かに「献身」が求められるが(「名利を思ふは奉公人にあらず」)「没我的」である必要はない(「名利を思はざるも奉公人にあらず」)と読んだ方が、常朝の真意に近いのではないか。
 『葉隠』を「献身の道徳」ととらえようとする志向と等しく、これを山鹿素行の「士道」と対照的な性格のものと見なさなければならないという考え方も和辻氏の強い影響であろう。私の考えでは両者は基本的に同じ性格を持つ(「『職分』としての『武』」=論集きんせい10)のだが、我田引水の気味があるので深入りしない。ただ、石田一鼎の影響をあっさりと否定していることなどは問題がありそうに思われる。

 誉めてばかりいるのも気が利かないので、いささか引っかかることを挙げてはみたが、いささかも価値を貶めるものではない。本書が武士道研究の必読文献になることは間違いないだろう。私も繰り返して読んで学びたいと思っている。

小池喜明『葉隠 武士と「奉公」』講談社学術文庫1997年7月 \1150