広沢何某

田中光郎

」  堀部安兵衛のいとこ佐藤条右衛門が残した覚書は、原本の所在は不明ながら新発田の郷土史家・三扶誠五郎氏による写本が存在し、中央義士会から翻刻出版されている。同書に「松平左兵衛公の御留守居広沢何某」という人物が登場し、細井広沢のことだとされているが、これはいかがなものであろう。
 この書での条右衛門はどうしたわけか(幕府を憚ったのかも知れないが、そうだとするとわかりやすすぎる)フルネームを知っているはずの人物についても「○○某殿」と書いていることが多い。しかし、その場合の○○は姓であり、もしこれが細井広沢なら「細井何某」と書くだろうと思われる。またこの時期の細井広沢は柳沢家を辞して間もなく、松平左兵衛に仕官していることは考えづらい。かりに松平左兵衛に召し抱えられていたとしても、いくら高名の書家でも、新採用をいきなり江戸留守居役にするほど人材不足でもあるまい。かたがたもって不審だと思っていたが、検証するに暇あらず、そのままで打ち過ぎていた。
 先日やや時間を得て図書館で『大武鑑』を確認、宝永2年版で明石松平家の御城使(これが江戸留守居の別称であることは広く知られている通り)に広沢竹右衛門の名を見出した。時間が許せばもっと詳しい調査をしたいところだが、当面はこれで「証明終わり」にしてもよろしかろう。「広沢何某」は細井広沢でなく広沢竹右衛門とすべきである。