佐々信濃守、といっても、一般の読者には「それ誰?」という感じかも知れない。しかし、義士研究者なら思い当たる。大石内蔵助良雄の妻・りくの外祖父とされている人物である。あまり詳しい事柄はわかっていない。佐々一族の歴史は、猛将・成政の滅亡もあって分明でない。複数の系図が伝わっているが、系譜類の常として真偽のほどが定かでなく、定説が得られにくい状況である。
幕府の公式編纂にかかる『寛政重修諸家譜』も絶対信頼できる訳ではないが、ある程度は尊重してよかろう。その中に「佐々信濃守」を称した人物が見える。豊臣秀吉・徳川家康に仕えた佐々長成は、秀忠の参内に供奉するために信濃守に任官したという。『諸家譜』は長成の父・勝右衛門長治から書き出しており、成政との関係は分明でない。「長」を通字とし、子孫の通称に「権」を用いたものが多いから、佐々権左衛門長穐の親族かとも思われるが、今のところ直接証拠はない。
この佐々信濃守長成がりくの祖父だ、という話なら簡単なのだが、あいにく一筋縄にはいかない。『諸家譜』によれば長成の子に松平安芸守の臣となった孫右衛門某があり(宇右衛門でないのが残念!)、ある程度は符合しているけれど、全体的には整合性を欠いている。何より問題になるのは信濃守長成の没年が寛永2(1625)年ということで、かりに娘(りく母・快楽院)が同年の生まれとしても、りくを生んだ寛文9(1669)年には40歳をこえた超高齢出産と相成り、不可能でないまでも不自然である。
といって、寛永期に佐々信濃守長成が実在するとすれば、他の佐々氏があえて信濃守(正規に任官しない「信濃」を含め)を名乗るということは考えづらい。同名異人を想定するよりも、何らかの誤伝・訛伝、たとえば佐々信濃守の孫娘というのが間違って伝えられたという類の事情があったと推定する方がよいのではないか。
快楽院の出自が長成系だとすれば、石束氏との接点もないことはない。信濃守長成の嫡孫・又兵衛隆直は、京極高和が龍野から丸亀に転封になった時に目付として立ち会っている。ところでこの丸亀京極家には佐々九郎兵衛という重臣があるから、職務上の接触のついでに一族のよしみで所縁の娘の縁談に話が及ぶことも考えられないでもない。九郎兵衛が豊岡京極家の重臣・石束氏を想起して紹介するというのもありそうな話。この転封が万治元(1658)年のことだから、だいたい平仄はあいそうな気がする。
長成周辺にはまだ史料がありそうで、本来ならばそうした調査を終えてからまとめるべきなのだが、今のところ手がまわらない。とりあえず書いておくと、誰か調べてくれるかも知れないと思い掲載する次第である。