二足のわらじ

田中光郎
 氏家幹人氏『サムライとヤクザ』読後感(読書日記2007)の続き、のようなもの。
 氏の関心事、日本社会がなぜヤクザに弱いのかという問題を考える場合には、「武威」のアウトソーシングよりは、治安維持のアウトソーシングの方が重要なように思われる。すなわち、犯罪者集団と公的権力が相互依存するような政治文化である。
 ここでイメージしているのはいわゆる「二足のわらじ」である。博徒でありながら公権力の手先をつとめ、公儀の威光をかさにきて非道を働く鼻持ちならない存在、というようなイメージである。中には、国定忠治を密告した三室の勘助などもいる。この勘助について、高橋敏氏は名主などをつとめた人物で、「二足のわらじ」でなかったと論じておられる(『国定忠治』)。貴重な史料を掘り起こした業績には敬意を表するのだが、博徒でなかったという結論は如何だろう。「賭魁」という羽倉簡堂の表現を否定するほどの根拠は示されていないような気がする。
 勘助が「道案内」だとすれば、名主であることは不思議でない。三田村鳶魚『捕物の話』などによれば、そもそも関東取締出役の「道案内」をつとめるのは村役人クラスの有力農民である。犯人捕縛などに活躍する「番太=目明かし」と同一視する訳にはいかない。地域の有力者を治安維持に利用するのは、近世後期の関東に限定されていた訳ではあるまい。「引窓」(『双蝶々曲輪日記』八段目)の南方十次兵衛こと南与兵衛は、おそらくそこここに存在していたはずである。南与兵衛も品行方正とは言えないし、義侠心も持ち合わせているが、博徒ではない。ふたたび鳶魚によれば「博奕打のある者に十手を預ける」ケースはないでもないが、それは「百姓でありながら、身を持ち崩して博奕打の中に入っている者があるような場合には、昔のよしみで案内者になる」という道筋らしい(『侠客の話』)。そうだとすれば、「二足のわらじ」は博徒のくせに御用を務めているのではなく、御用を務めるような家柄なのに博徒になってしまったのではなかろうか。そして、出役の「道案内」をするのに、博徒であることはさして障害にならなかったらしい。(幕領ではこうしたことがなかったというから、全面的にOKではなかったのだろうが)
 「二足のわらじ」に限ったことではなく、大親分と呼ばれるような者はたいがい百姓上層の出身である。飯岡の助五郎は網元の養子だし、笹川の繁蔵は名主の子である。国定忠治は新田義貞郎従の末裔という草分百姓の家柄だし、清水の次郎長の実家は複数の船を所有している船頭で、養家は資産数千両という米穀商だった。どうしてそんな現象が起こるのか。これについても鳶魚の著述にヒントがある(『侠客の話』)。親分と立てられるような者は博奕で勝ってはいけないらしい。きれいに負けて子分たちを潤さなければ、人気が出ないのだそうだ。そうだとすれば、どこかに資金源がなければならぬ。悪どく稼ぐのもないではなかろうが、それも男を立てるにはマイナス要因になろう。結局は家から資金を調達できる立場が有利なのだ。親不孝の代名詞のような博徒でも、親ほどありがたいものはない、のかも知れない。
 そんな博徒であるから、出身の村落社会でも一定の地位を保有していた。国定忠治に人気があったというのは知られているが、飯岡助五郎も地元では評判がいいらしい。「博徒の分際」でというよりは、本来そういう役割を期待される「地域の有力者」としての顔なのではあるまいか。これはもちろん幕藩制の民衆支配策のありようとも関係している。広範に百姓の「自治」を認める、裏返しで言えば村に任せきりの幕藩権力。それと対応して一種の名望家政治を実現する百姓たち。「二足のわらじ」はそういう構図の中の一現象なのだ。
 ところで、今回全面的に依拠した鳶魚翁、管見の範囲では「二足のわらじ」という表現を用いていないようだ。この語に史料的な裏付けがあるものかどうか、はなはだ以て疑わしい。読者諸賢の御示教をたまわりたいものである。

 「二足のわらじ」という呼称に史料的根拠があるのかどうか詳らかにしないので、定義も明確にできない。ただ、映像的にはいかにも悪役然とした(育ちの悪そうな)描き方をされている場合が多いので、そんなイメージでとらえられていることが多いのではなかろうか。そうだとすればちょっと違う可能性も考えてみる必要があるのではないだろうか、というのが私の問題意識である。博徒のくせに権力の走狗となっていると言うよりは、本来権力の末端を担うべき階層の中の「チョイ悪」くらいに位置づけた方がいい。他の親分衆だって大同小異であろう。ただちに幕藩制を動揺させるものというよりは、村落におく暴力装置を節約した幕藩権力を補完するような存在だったのではないか。
 治安維持の外注という現象は、幕末により顕著にあらわれる。典型的なのは新撰組である。その母体となった浪士組に博徒祐天仙之助がいたことが知られているが、要するに出自としては大して変わらないと言うことだろう。浪士組を提案した清河八郎も、勤王博徒日柳燕石も、赤報隊の相良総三も、たぶん同様。維新後に自由民権運動の中核となった階層とも重なっていく。