「実」のないはなし

田中光郎

「永蔦雑志」でしばしば言及しているけれど、国会図書館のサイトにある近代デジタルライブラリーは実に有用かつ面白い。換言すると小ネタの宝庫である。
 たとえば、信夫恕軒の『赤穂義士実談』という本がある。重野安繹『赤穂義士実話』とならぶ、近代の赤穂事件研究の草分けである。恕軒は漢学者だが、日本の歴史にも造詣が深く、かつ話術も巧みだったらしい。この本は講演の速記録だが、随所にくすぐりを入れるなど面白くできている。面白すぎて客観性を欠くなど問題と思われる箇所もあるが、まずまず穏当に史実を概説したものと言える。明治35年に広文堂という書店から出版された(『赤穂義士事典』、松島栄一『忠臣蔵』、宮澤誠一『近代日本と「忠臣蔵」幻想』など)。大ベストセラーだったようで、かなり版を重ねている。私の持っているのは明治43年の第50版である。大量に出たおかげで、現在の古書店での相場もそう高くはない。
 ところが、である。近代デジタルライブラリーには『赤穂義士談』という「実」の字の落ちたものが収められている。明治30年談叢社刊。内容は、というと、どうやら一字一句違わない。つまり、こちらがオリジナルなのである。版元が変わった経緯、改題された事由はわからないが、実は「実」のない談(はなし)の方が本当だったという話である。ほらね、やっぱり小ネタでしょ。