赤穂事件に関する重要な史料に『江赤見聞記』がある。これを『赤穂義士事蹟』のタイトルで出版し世に知らしめたのが、広島の人・岡謙蔵である。出版の経緯については拙稿「『江赤見聞記』について」を参照していただくとして、今日は功績者・岡謙蔵についてである。どういう人物かは不明で広島市議会で議長を務めたことくらいしかわからなかったのだが、たまたま発見したので報告しておこう。
『日本人物情報大系』という本がある。 版元は皓星社、伝記集・名鑑の類を大量に集めて復刻した叢書で、個人購入には無理があるが、大きな図書館にはあるはずである。何しろ大部なもので調べるのも容易でないが、WEB索引(未完成)を使えばかなり効果が上がる。で、これで岡謙蔵をひくと憲政編2『帝国議会議員候補者列伝』中に記載のあることが確認できる。なお同名の書は国会図書館近代デジタルライブラリーにもあり、序文の執筆者は違うものの(情報大系は植木枝盛、デジタルライブラリーは島田三郎)、内容は同一のようである。
同書によれば、第一回総選挙に広島県第一区から出馬が予想されていた人物が、広島市新川場町の岡謙蔵である。天保6年(1835)生まれというから、総選挙の明治23年(1890)には数えで56歳。「士族」とあるのは、『赤穂義士事蹟』の奥付で平民になっていたことと整合性を欠くが後考をまつ。また代言人とある。今日でいう弁護士である。
ちょっと変わった人物だったらしい。「邦内千有余ノ代言人中チョン髷ヲ頂クモノハ岡謙蔵君ヲ措テ他ニ之レアラザルベシ」と書かれている。本人の主張によれば、歴史上髪を結えという命令が出たことはあるが、散髪をしろという命令が出たことはない。いわゆる断髪令は諭告にとどまり強制力のあるものではない。自分は結髪の利点を信ずるので散髪するつもりはない、というのである。そのくせ和服ではなく、フロックコートを常用していた。これも本人の主張では、フロックコートはもと日本の礼服であり、まして政府がフロックコートを礼服と定めたのだから、という。この理屈、正直よくわからないのだが、とにかく独特の理屈屋で変人だったのは間違いなかろう。ちょんまげにフロックコートの代言人である。
もとよりただの変わり者ではない。つとに志を公共の事に注ぎ、コレラ流行の際は身命をなげうってその撲滅のために奔走した。日本赤十字社広島支部常議員、大日本私立衛生会広島支部常議員、神道広島分局顧問、大日本風俗改良会員、広島用水会社発起人、広島県会市部常置委員、と肩書が列挙されている。地方の名士であり、それなりに人望を集めていたのであろう。
当選したかどうか、いやそもそも総選挙に出馬したのかどうかも、未確認である*。ただ広島市会の議長就任が明治29年であるから、国政進出よりは郷土のために働く道を選んだように思われる。わからないことだらけだが、情報があればお知らせいただきたい、という意味をこめて、ここに紹介しておく。
* その後立候補者に名前のないことは確認した。