講談の義士銘々伝では、菅谷半之丞は大変な美男子ということになっている。そのために継母に懸想され、これをはねつけたばかりに讒言されて、父親から勘当を受けた、という筋。山崎美成『赤穂義士伝一夕話』にあるからそれほど新しいわけではないが、もちろん史実とは言えない。おそらくは全員に伝を付けようとして材料に困り、「愛護若」あたりにヒントを得て創作されたものであろう。
もうちょっと素性の正しいネタとして、三次に潜伏していたときの話がある。出所は菅茶山の随筆『筆のすさび』で、『日本随筆大成』に収められているが、菅茶山遺芳顕彰会のサイトの中でも読める。昔の本がこういう形でどんどん公開されるとありがたいと思う。ちなみに『筆のすさび』ではこのほかに「大石良雄」「亡国弊政」の二章が赤穂事件関連である。
さてこの随筆によれば、主家改易後の菅谷某(すなわち我等が半之丞)は備後三次に隠棲したが、片足を引きずり耳も遠い様子で、毎日釣りばかりしていたので、子どもたちの嗤われものになっていた。しかし、半年ほどして三次を発った半之丞、町はずれで会った人は脚も耳も正常なようなので驚いた、という。また、半之丞は伯母の家にいたのだが、酒ばかり飲んで借金もかさんでいたが、三次を発ったあとにはきちんと支払いができるように整理してあったという。なお、ほぼ同内容で頼杏坪に「甲斐庵記」があるらしいが、未見である。
半之丞が三次にいた事は、本人の書状などからも確認できる(この書状については後述)。ただし、伯母ではなくて兄または姉を頼ったものと推測される。障害を装ったとか、酒浸りの借金まみれだったとかは、傍証がなく、にわかには信じがたい。内容は地元に言い伝えられたものであるが(河相周二・考安については未勘、読者の御示教を待つ)、茶山の活躍したのは事件から一世紀後であり、伝説は既に一人歩きをしていたろう。
史実として確定することはできないが、三次では半之丞音頭とともに親しまれている。継母に言い寄られた話ほどは罪がないし、目くじら立てて否定する事もないのかも知れない。
菅谷半之丞が主家改易後三次にいたことは、本人の書状から知られる。その書状は「早水家文書」のうちにあり、古くは『赤穂義士史料』で、最近では赤穂市立歴史博物館資料集『早水家文書(一)』(以下『早水』)に翻刻されている。『早水』の収める半之丞の書状を概観しておこう。
同書にある半之丞の書状は6通、いずれも早水藤左衛門宛(ただし後述の通り、署名・宛名を欠くものが一通ある)。23号(7月20日付)、24号(ただし署名・宛名欠、7月20日付)、28号(正月10日付)、37号(4月6日付)、39号(4月17日付)、58号(月欠26日付)である。うち、37・39・58の三通は事件とは関係ない。ヒマだったら泊まりに来い(58号)とか、刀を鑑定に出してもらうように頼む(39号)とか、親しい間柄であったことは証明できる。薬代の支払いについて連絡している(37号)のは、早水の父親の看病(後述)に関わるのかも知れない。違うような気もするが、決め手がないので存疑としておこう。
23号は、内容から見て元禄14年の7月20日のもの。早水が6月28日に大坂から、7月4日に京都から、2通の書状が送られたのに対する返書である。菅谷はこの時点では赤穂にいた。幕府代官の手代・松嶋条右衛門との交際や、金策をしているらしい様子が伺われ、興味深いものであるが、その検討は次の機会に譲るとして、ここでは「当廿二三日には爰元立申、足守へ立寄、三好へ帰り申事にて御座候」とあるのに注目しておこう。「三よしより可得御意候」とか「切々三よし江預御状度奉存候」ともあり、この後三次に行く予定だったことは間違いない。
28号は翌15年の正月10日付。また赤穂に来ているようで、早水の父・四郎兵衛の病気について報告している。快方に向かっていて喜ばしいのだが、人参代が三両ほどになり、何かにつけて銭のいることばかりだと愚痴をこぼしている。しかも、そのうえ藤左衛門は送金を依頼しており、ここでも何とか工面するという。交際の親密さを証しているのだが、赤穂にとどまった旧藩士たちの役割(いわば後方支援)を考える手がかりにもなろう。
さて、もう一通、23号と同じく7月10日付の24号である。署名を欠くが、筆跡から菅谷と推定しているのは穏当であろう。ただし『赤穂義士史料』も『早水』も元禄14年と推定しているのだが、これはいかがだろうか。24号には「私事、帰り申候而、山科辺へ参度心底ニて御座候。三よしの様子次第登り申事も可有御座候」とある。23号のこれから三次に向かうという予定と整合しない。また「兼而一儀」について気をもみ、江戸の様子も色々取りざたされているが確かなことがわからないと苛立っている、全体の調子も23号文書と同じ時期とは思えない。これは翌15年のものとみるべきであろう。大学左遷にからんであれこれ情報がとびかい、緊迫した状勢のもとで書かれたと考える方が自然なように思われる。