古義堂と赤穂義士

田中光郎

(1)小野寺十内母の九十寿を賀す

 小野寺十内の母親九十歳のおり仁斎・東涯が祝賀の詩を贈ったというのは有名である。どんな詩だか読んでみよう。テキストはいずれもぺりかん社の影印本から。
 まずは仁斎。『古学先生詩集』巻之二、四十丁。

  賀小野寺十内[秀和]母九十寿[庚辰]
 母氏年高九十強
 無憂無病又無傷
 老莱孝思誰能識
 膝下猶呼為小郎
 語釈、というほどのこともないけれど「老莱」は古代中国の孝行者。親が年老いたことを感じないように、わざと子供服を着て子供のような振る舞いをしたという。落語の「孝行糖」に登場する由。
 戯訳:おふくろさまは九十すぎて、いまだにぴんぴんしてござる。老莱の孝を、誰が知る。親にしてみりゃまだ坊や。
 続いて東涯。『紹述先生文集』巻之二十八、五丁。
  小野寺氏[秀和字十内]母某氏九十寿[浅野内匠侯京邸官]
 羨君官政不遑時
 慈母九旬絲髪垂
 況復一堂不違養
 更無晨夕倚門思
 倚門」は門によりかかって子の帰郷を待つ親の様子。
 戯訳:公務多忙にしながらも、90の母親髪まで元気。いっしょに暮らしているために、待たせずすむとはうらやましい。
 ううむ、訳してみたもののどうも味わいに乏しいなあ。なにぶん門外漢である。御叱正賜れば幸甚。

(2)伊藤梅宇『見聞談叢』三則

 伊藤梅宇の随筆『見聞談叢』には赤穂事件に関する記述が三件ある。念のため確認しておくと伊藤梅宇(1683-1745)は仁斎の次男、東涯の弟である。残念ながら儒者としての評価は父兄に遠く及ばず、伝わっている著書も日本に関する随筆『見聞談叢』のみであるという。三件はいずれも巻之六所載。岩波文庫本では「小野寺十内」「大野九郎兵衛と其子小堺十助の末路」「大石主税の人品」と標題をつけている。
 小野寺十内の項では「古義堂へも度々入来、先人と念比なり」とあって、仁斎と親しかった様子を伝えている。十内の風貌は長身痩躯、身なりにかまわぬ性質で、あまり勇者というタイプではなかったらしい。江戸へ向かうときに東涯に暇乞いに来た逸話、一挙後東涯が十内の母・妻を訪ねた逸話が載っている。記述は興味深いのだが、「年齢四十余」というのは事実と異なっている(討ち入り時60歳)ほか、討ち入り前に死んでいるはずの母親を生きているように書いているなど、問題点もある。
 大野については「これも先人と近付のすじ」としながらも「不忠の人ゆへ・・・をとづれもなし」と素っ気ない。ただ仁和寺のあたりに住んでいること、名を「閑静」と改めていることなどが、他の史料と符合する。息子(郡右衛門)が小堺十助と改名して日用頭となり、大野の子であると知れて仕事ができなくなって餓死したとある。傍証がないので要注意だが、一説たるを失わないであろう。
 主税については江戸発足前、懇意な町人のところで梅宇自身が会っているという。「色白く甚びれい」でありながら「骨柄たくましき事」尋常ではなかったという。性格は「いふにいわれぬ温而厳なる人」だったという。なかなか捨てがたい記述ではあるが、変名として使っていたという石崎豊之助・大川主馬が他の記録に見えないなど、そのまま信用するのはちょっと問題である。
 全体としていえば、興味深いけれど要注意だということである。大石内蔵助が仁斎の塾で学んでいた時に居眠りをして云々という逸話(『先哲叢談』)について言えば、ほぼ間違いなく虚説だと言えよう。大石本人と古義堂にわずかでも関わりがあれば、梅宇がここに漏らすはずはないからである。

(3)並河誠所宛伊藤東涯書状

 伊藤源蔵(東涯)が元禄16年正月に並河千左衛門に送った書状がある。小野寺十内との親交や大野九郎兵衛の消息が書かれている、ということは、あちこちで読んだのだが、恥ずかしながら、肝心の本文を見たことがなかった。福本日南『元禄快挙真相録』に抄録はあるのだが、全文を読んだ事がなかったのである。ところが先日、例によって国会図書館の近代デジタルライブラリーを見ている時に杉原夷山『大石良雄』(明43、三芳屋)の中に収められていることを“発見”した。杉原夷山について、現時点であまり多くのことを調べていないのだが、陽明学関連の著述や落款集成などの業績がある文人らしい。さて、問題の書状の全文を紹介するのも意味ないことでもあるまい。

猪日之華簡落手、辱致拝見候。如仰、新年之御祝儀目出度申納候。愈御堅固に被成御越年、珍重奉存候。手前無相替事、一家平安致加年候。殊に思召被寄、預御祝儀、毎度被掛御心、不浅悦入、辱存候。家翁も宜しく相意得候様にと申付候。
一、長沢・真杉諸賢切々御出合被成候由、珍重存候。真杉殿は爰元にても御預り事にて、仕進遅滞可仕哉と申、気之毒に存候。
 果然にて、誠に思召被寄、浅野殿旧臣四十七義士之書付、細書に被仰下。加様之書付は、何より辱存候。如仰、小野寺は在京中、能存じたる人にて御座候。此度之働にては、日来近付と申も交遊之面目御座候様存候。先年貴丈と二条通御同伴申候刻に行遇、貴様にも近付之由御咄之人にて候。兼て好人とは存候へ共、加様ほどの義者に御座候とは、不思懸候。無事之時、人之非判は、如某等者は、いらざる事かと存出申候。
 人恒言、今之世は百年以前より人心之儀も無之様に申候。熟存候に、百年前、為織田・豊臣両主、所滅所殺之輩、如北条、如柴田、如斎藤・佐々木、諸侯あまた有之、誠に帯甲百万之家にて候。其内之人、誰か両主を狙ひ申輩御座候哉。総体之事は戦に狎れ候時とは違可申か、加様之事は昔にまさり可申哉。且書置を読候て見候に、是もむかし之武士ならば、冥途に赴く等之如き仏語、必定加り可申に、君父之讐と云証文を引しは、自五倫之筋にたより候様に人心も成り候やと、是又不堪一感候。  尚期永日之時候。恐惶。拝。
  正月廿五日             伊藤源蔵
 並河千左衛門様

  中江・浅井両丈へ御噂ども、何も堅固に御座候。扨旧冬之火事、其元これも承候。爰元にても○○○、拙宅近く暫さわぎ申候。
 尚以浅野殿之事、御料簡も承度候。多野九郎兵衛は、只今仁和寺にて、伴閑セイと申候。先年之伊藤源三之弟にて候。多野のヲヒ五右衛門、伴宗寿と申候、産科之医になり申候。上京に屋札有之。

 簡単に内容を見てみよう。最初(および追伸の冒頭)は事件とは関係ないが、ここから年賀に対する答礼だということがわかる。猪日とあるのは正月三日のことである。長沢は長沢粋庵、中江は中江岷山にあててよいだろうか。真杉・浅井は不明。ただ、どうやら長沢・真杉は並河とともに在江戸、中江・浅井は伊藤一家と同じ在京と見える。宛名の並河千左衛門は並河天民と見なされていることが多いのだが、兄の誠所であろう。当時は掛川井伊家に仕官して江戸にいた。通称は五一が知られているが、『三島市誌』によれば「幼名は弥太郎、長じて正蔵又は千左衛門、後に五一郎と称した」とある。
 江戸にいた並河が、年賀とともに赤穂一件についての詳報を書き送ったようで、何よりかたじけない、と東涯先生大喜びである。ついで小野寺十内との交友を得意げに書き記す。いい人だとは思ったけれど、これほどの義者とは思いもよらなかった、うかつに人物評価などしないようにしよう、とちょっぴり反省も。  それに続けて、織田・豊臣の時代に主家を滅ぼされた人々の誰が信長・秀吉をねらったろう、と言って人心が悪くなったという世間に対する異説をとなえる。ことに討ち入り趣意書に仏語でなく「君父之讐」とあるのを高く評価している(これを聞いたら堀部父子も定めて喜ぶ事だろう!)。
 追伸部に「多野九郎兵衛」についての情報がある。仁和寺あたりで「伴閑セイ」と名乗って暮らしている。伊藤源三の弟という説は他所で見ない。これによって見れば、九郎兵衛は伊藤家から養子に行ったものと見える。五右衛門を九郎兵衛の甥としているのも特徴で、『冷光君伝記』の注に従って弟とすることが多い。源三・九郎兵衛・五右衛門が三兄弟で、五右衛門が源三の養子になったとすれば両方成立するが、あまり根拠のない空想を展開するのは控えておこう。伊藤五右衛門が医者になったという話は大石内蔵助も書いており(小坂為作宛書状、『未刊新集赤穂義士史料』所収)信憑性が高い(ただし、名は伴宗節とある)。  この書状、日南によれば静岡・柏原学而氏所蔵という。適塾で学んだ医師で、徳川慶喜とも親交のあった人物。とはいえ、百年前の情報である。今も御子孫が持っておられるのだろうか。あるいはどこかの機関が所蔵しているのであろうか。