山本博文氏の新著『日本史の一級史料』(光文社新書)は、とても面白い本である。「歴史」が「史料」から紡ぎ出されることを、自己の体験を中心に(時に失敗談をまじえながら)語ってくれる。歴史学を志す人、歴史に興味のある人、すべてに読んでいただきたいと思う。
ではあるが、私は本書の大筋とは関係の薄い一点に引っかかってしまった。それは、第1章「有名時代劇のもと史料」のなかにある、宮本武蔵の『五輪書』にかかわる次の記述である。
しかし、「只死ぬると云う道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也」というのは、佐賀藩士山本常朝の言葉である『葉隠』を下敷きにしたような言い方です。武蔵の時代には、まだ武士らしい武士が大勢存在した時代であり、武士道の本質が死ぬことだというような言説が成立していたとは思えません。つまり、『五輪書』の言い方は、十七世紀末ならばわかるけれども、十七世紀中頃のものとは思えないのです。
念のために言っておくが、『五輪書』に後人の手が入っている可能性を否定するわけではない。「武士道の本質が死ぬことだというような言説」が17世紀中頃には存在しないのか、という問題である。
私の念頭にあるのは、たとえば「加藤清正七箇条」である。その第七条に「武士の家に生れてよりは太刀かたなをとつて死る道本意なり」というのは「武士道の本質が死ぬことだというような言説」であろう。もとよりこの「七箇条」が清正の手になるものかどうかは保証の限りでない。「七箇条」は『清正記』に収められているのだが、『続撰清正記』の編者はこれに否定的である。しかし、もとの『清正記』の出版された寛文初年の段階で、これが加藤清正の遺訓だということが信じられるような状況があったのは事実であろう。
あるいは藤堂高虎遺訓の第一条「寝屋を出るより其日を死番と可得心」などというのもある。『葉隠』よりは『武道初心集』に印象は近いけれど、これも「武士道の本質が死ぬことだというような言説」に数えていいだろう。これまたテキスト問題があって、高虎本人の言葉でない可能性がある。しかし、寛文ごろには高虎の遺訓と考えられるようになっていたと思われる。
要するに、17世紀も中葉になれば「武士道の本質が死ぬことだというような言説」はそれほど珍しくないのではあるまいか。このあたりの認識は、『葉隠』に対する評価の問題とも関わっている。「武士道と云は死事と見付たり」という『葉隠』の言葉は、修辞的な卓抜さは認められるとしても、考え方としてはそれほど突飛なものではないような気がするのである。