瀬尾孫左衛門は逃亡したのか

田中光郎

 大石内蔵助の家臣・瀬尾孫左衛門は、特に願って仇討ちの供を許されたが、平間村の隠れ家を守っているうちに原惣右衛門組の足軽・矢野伊助とともに逃亡したとされている。このことは例えば大石自身が赤穂の恵光・良雪・神護寺にあてた書状(《元禄15年》12月13日付)に明らかに記されており、ほとんど疑う余地はないように思われる。しかしながら、事件後に書かれた大石内蔵助夫人・理玖の書状を見ると、事態はさほど単純でないような気がするのである。
 前回紹介した休真宛の書状(『赤穂義人纂書』所収、元禄16年2月26日)がそれである。休真とは瀬尾のことで、内蔵助以下の切腹を受けて悔やみ状を出した、その返事ということになる。もし脱走が本当ならば、いかに厚顔でも悔やみ状など出せまいし、それに対する理玖女の返事が到底裏切り者に対する態度とは思われない。もちろん、理玖は小山源五左衛門や進藤源四郎ら脱盟幹部組とも親戚づきあいを続けているくらいだから、心が広かったのだということができない訳ではない。しかし、それにしてはあまりにあけひろげに心の内を述べているように思われる。
 『赤穂義士史料』には元禄15年12月27日に理玖が赤穂の神宮寺に出した手紙を載せている。その中に「孫左衛門事ハ偖々心外ナル事ニテ残念ニ存マイラセ候」とある。通常これが孫左衛門の脱盟をさしているとされるのだが、どうだろう。その点を考える前に先を読んでみると「何事モ時節ニテ御座候マゝ、御イサメニテ下サレヘク候」とある。どうやら、12月の下旬(少なくとも27日より2,3日前には瀬尾は赤穂にいて神宮寺と連絡をとっているわけだ。それも相当密接にである。あるいは神宮寺に身を寄せていた可能性すらあるだろう。
 というのは、理玖が休真にあてた書状と同じ2月26日付で、石束家臣口分田茂兵衛が神宮寺に宛てて悔やみへの返書を書いているからである(瀬戸谷晧氏のサイトで紹介されている)。現在のような郵便制度がないのだから、しかるべき使いの者が神宮寺と瀬尾からの手紙を届け、(かなりの確率で)返事を持って帰ったのだと思われる。大石の切腹場所についての誤情報に基づく記述を残したまま書き直さなかった理由として、使者を待たせていて十分な推敲ができなかったのだとすれば、平仄は合う。
 12月の理玖書状には孫左衛門と書かれていた瀬尾は、2月末までに休真と改名している。恐らくは出家したのであり、そうだとすれば神宮寺において剃髪したと考えるのが自然だろう。  瀬尾の“逐電”は小野寺十内妻あての大石書状(12月10日付け)によれば12月3日のことである。他に6日説(弥三右衛門ら宛横川勘平書状)や12日説(『寺坂信行筆記』)もあるけれど、いずれにしても12月にはいってからのことであるのは間違いない。つまり、どこかに身を潜めたりするのではなく(いずれかに立ち寄ったとしてもせいぜい数日の滞在だったろう)、ほぼまっすぐ赤穂に戻ってきたことになる。
 『赤水郷談』によれば瀬尾は尾崎村の元屋(庄屋?)八十右衛門の兄弟だというから、赤穂に帰ってくるのは当然かも知れない。神宮寺は尾崎にあるのだから、そこと連絡をとるのも異とするにはあたらない。しかし、現在の主人を裏切って逃亡したとするならば、仇討成就の祈祷までしていたというほど主家と関係の深い寺院に現れる(まして身を寄せる)というのは不思議な話である。
 ここで想起したいのは寺坂吉右衛門のケースである。大石らが瀬尾について語っていることと、寺坂について言っていることは、おかしなくらいよく似ている。寺坂の場合は伊藤十郎大夫という善意のおせっかいがいて、嘘がほころんだけれども、それがなければ逃亡で決着していた可能性が高い。瀬尾が何らかの事情ではずれる事を命ぜられたと仮定することは、あながち不可能ではないように思われるのである。
 少なくとも、2月26日付け書状に示された理玖の態度は、そう解した方が自然である。この書状には休真が室井左六といっしょに花岳寺へ参詣したことも書かれている。恵光ほかあて大石書状で、不忠者の瀬尾に対して称揚されていた左六・幸七のかたわれである。理玖ばかりでなく左六もまた瀬尾に隔心なく付き合っているとするならば、関係者には事情が了解されていたという可能性が高くなるだろう。
 12月27日付けの方にかえってみれば、瀬尾の何が理玖にとって「心外」だったのか、神宮寺は瀬尾をどう「イサメ」ることが期待されたのか、本文からは明らかでない。たとえば(あくまで想像であるが)「瀬尾が主命により意に反して列を離れたが一挙の済んだ上は切腹したいと言い張って困っている」と言い送ったのに対し、「やむをえなかったのだからとなだめて下さい」という趣旨の返事をした、としても筋は通るだろう。そうだった、と主張している訳ではない。瀬尾の行動には疑問が残るのではないか、という問題提起をしているだけである。

 仮に逃亡したのではないとした場合、重大な矛盾がおこるだろうか。
 大石の発想からして、同志の資格をかなり厳密に浅野家直臣の士分と考えていた傾向がある。寺井玄渓の参加を謝絶した件、大石無人の件、寺坂吉右衛門問題、近松勘六小者甚三郎の件などをつなげて考えてみれば、瀬尾の参加を認めなかったとしてもさほど不思議はない。恵光らにあてた書状で瀬尾が立ち退いた事にふれ「拙者外聞と申し死後までも人口喜悦のところ是非なき次第にて候」などと書いているが、それが本心ならば室井左六・加瀬村幸七を参加させてもよかったはずである。そうしなかったのは、参加させない方が本意だったからに違いない。
 瀬尾の逃亡を非難している史料が見られるが、これは上述の通り寺坂に対するものと共通している。討ち入りに参加した寺坂と、そうでない瀬尾を同様に扱うのは不当だという意見はありうるだろう。同じく不参加の左六・幸七については温情ある言葉を残しているのに、瀬尾に対しては冷たいのは脱走の証拠だと考えることもできない訳ではない。
 しかし見方を変えてみれば、瀬尾の場合には左六・幸七よりも寺坂に近いものがあったという可能性もあるように思われる。浅野家旧臣の義挙は、犯罪でもあった。寺坂を非難する言葉は、彼を擁護する立場から発せられたのではなかったか。そうだとすれば瀬尾(および矢野伊助)についても同様の事情があり得るのではないか。
 直接の証拠はないので、あくまでも可能性の検証のための仮説だが、たとえば寺坂の逃走を幇助する任務を帯びていたというのはどうだろう。普通に考えて、討ち入りをした寺坂が単独で逃避行を開始したとすれば、相当に大きな困難が予想される。瀬尾・矢野がそのサポート役を命ぜられたとしても不都合はない。瀬尾・寺坂・矢野は実際に討ち入ったメンバーのうちの物頭級以上の幹部(大石・吉田・原)に丁度対応する。3人は私的な密使の役目を負い、討ち入り参加と逃走サポートとを役割分担したかも知れない、のである。当の寺坂の筆記にも瀬尾・矢野が「欠落」と記載されているという問題はあるが、これが書かれたのが元禄16年5月(同書奥付羽田半左衛門・柘植六郎左衛門宛)ということを考えれば、まだ追加処罰がありうる時期で共犯の証拠を残すまいとしたと理解できる。
 傍証となるような表現が、理玖の2月26日付書状にある。休真は江戸へ下りたいと思っているが「ごはつと」でできないのだと言い送っており、これに対して「ゆるがせ」になったら墓所へもおいでなさいと理玖が答えている。「御法度」とは何を指しているだろうか。一般的な法令があるという理由ではなく、一種の手配犯だという認識を持っていることを意味しているのではないか。だからこそ、ほとぼりがさめたら墓参もせよという答えになる。ただの脱走ならその心配は不要である。吉良邸に討ち入った同志と共犯関係にあるという認識が、瀬尾にも理玖にもあるのだと思われる。

 繰り返すようだが、明らかな証拠があってこのようだと主張している訳ではない。ただ、状況証拠を積み重ねればこんなことも考えられるのではないかという問題提起である。御意見など賜れば幸甚これに過ぎるはない。