『赤穂義人纂書』に「大石良雄後室青林院答村尾之書」という書状が載っている。
日付が「二月三日」とあって年次を欠くが、「おるり」が「今年十三」というので、宝永8=正徳元年(1711)のものと知れる。「それん事・・・程なく三年」というのも、吉千代の祖錬が宝永6年に亡くなって三回忌と言うことで計算は合う。そのほか管見の限りで矛盾は見つからない。この時期、香林院(大石妻りく)は豊岡にいた。 宛先の「むらを」であるが、「玄蕃殿御かくれ候てからは、たよりもふつうにたへ申候」とあるので、内蔵助の従弟、池田玄蕃由勝(宝永元年没)の周辺の女性と思われる。千馬三郎兵衛の子・藤兵衛がりく一家を訪ねてきたので手紙を託したとあり、三郎兵衛の遺児が岡山藩に仕えたという事実と符合する。その「むらを」が久しぶりに文をくれたので、その返事として書かれたのが本書である。
この書状で顕著なのは、「むらを」の問に答えて一族の様子がかなり詳しく書かれている事である。
進藤源四郎は山科で「ばんじらくらくとにぎやか」で「ろう人にはすぎ候暮」である。小山源五左衛門も京で牢人、息子の弥六(良邑)が公家方に勤めその弟・十三郎良淳があとを継いだこと(宝永5年)も書かれている。「お百殿にもきんちう方におち奉公」とあるのも、「おゆふどのもひろ島へ有付こたちもでき」「おまん殿もひろしまへ有付こもち」というのも、源五左衛門の娘に関する『系図正纂』の記述とほぼ一致する。すなわちお百(大石孫四郎室)は仁和寺守恕法親王の乳母となり、おゆう(潮田又之丞室)は広島の御牧武大夫信久に再嫁して女子をもうけ(早世)、おまんは芸州白砂村正楽寺恵空に嫁して「男子女子多し」とある。
「このへ様にとしよりやく」勤める「利生院」とあるのは、大石瀬左衛門母で近衛家に仕えた外山局。「きんちうがた御けらいのうちへ有付」いたという「おしゆんどの」は、瀬左衛門妹で近衛家の臣・進藤長堅に嫁いだ春。「五人のこもち」という「お久」はよくわからないが、進藤源四郎の娘で進藤俊易妻の久だろうか。『外戚枝葉伝』で、4人までは確認できる。「大紗坊」は「大西坊」の誤写と思われる。大西坊覚運は「冬とし江戸へ一山のそうだいにお下り」というのも『系図正纂』と一致する。
「さとう五左衛門」は不詳。あるいは伊藤五右衛門かとも思うが、これは後考をまつ。「孫左衛門」は大石家の家来・瀬尾孫左衛門で、「名を休山とあらため、いまにきぜうにくらし候よし」、「休真」の誤りか。「三郎兵衛」は同じく大石家の家来構三郎兵衛、「ふふふこどもも無事のよし」、いずれも赤穂にいるのであまり連絡をとっていないのだろうか。
これが偽書ならこんなに沢山無名の人物を登場させる必要はあるまいし、辻褄も合わなくなりそうなものである。一方、「不義士」一類と依然として親しい親戚づきあいをしている様子が読み取れるのである。以前「『不義士の末路』について」を草したときにも触れた事ではあるが、一族のつながりの強さというものを改めて感じるのである。
『赤穂義人纂書』に収められる大石内蔵助夫人・理玖女の書状がもう一通。前回取り上げた「むらを」宛書状よりもさらに重要な問題を含むものである。
もちろん写しであるが、奥に「赤穂松本新九郎珍蔵」とあり、赤穂に伝わっていたらしいことが伺われる。差出人は「それん母」、宛名は「休真殿」とあり、これも奥に付された注によれば休真は俗称瀬尾孫左衛門、すなわち特に願って付いてきながら討ち入り前に逃亡したとされている男である。
日付は2月26日だが、内容から言って元禄16年一党の切腹後すぐに書かれたものである。赤穂にいる休真の方から豊岡の理玖へ悔やみ状を出したようで、それに対する返書という形になっている。情報が混乱していたようで、他の同志は御預け先での切腹だが内蔵助一人は泉岳寺で切腹した、と書いておきながら、手紙を書いているうちに江戸から詳報があったとして訂正している。不体裁であり、相手によっては書き直しもしたのだろうが、家来筋の瀬尾なればいささかぞんざいに扱っている。このあたり、偽作としては手がこみすぎており、史料の信憑性をむしろ高めているといえよう。
不体裁である分、理玖女の真情をよく伝えているように思われる。切腹を聞いて「ちからおとし」ではあるけれど、結構な取り扱いを受けていることに満足している部分もあり、「まことに本もふ成事」とあきらめはしながらも「心ていのほど御さつし可有之候」とちょっぴり弱音もはいてみたりする。「身のおき所も無、とやかくと心ならずくらし」ているが、時節がくれば「うさつらさかたり申事」もあろうと、率直な気持ちを語っているのである。
上述の通り、手紙を書いている最中に詳報が来る。悲しみも新たに、介錯人の身分の高かった事(もっとも「ものがしら」は誤報で安場一平は徒士頭)や切腹の手際のみごとさをせめてものことと喜びながらも、「き色すぎれ不申、ふでもとゝのへがた」い有様である。
この書状は理玖の心事を伝えてくれるという意味で重要なのだが、もうひとつ瀬尾孫左衛門の動向に関しても貴重な示唆を与えてくれる。瀬尾が言われるとおりの裏切り者であったなら、理玖がこれほど打ち解けて心情を明かすだろうか。いつわり者で騙しているとか、改心したとかいう説明もむろん成立はする。しかし、私にはどうもそれでは割り切れないような気がするのである。この件については、項目を改めて考えてみたい。