「脱盟者の末路」という話題でよく出てくるのが、小山田庄左衛門の名である。
享保6年(1721)の正月15日というから、討ち入りから18年と1ヶ月経っている。江戸は深川万年町の本道医・中島隆碩が殺害された。犯人は下男の直助という男で、主人の金をくすねて咎められたのを逆恨みしての犯行であった。逃亡し権兵衛と名乗っていた直助だが、やがて露見し、7月26日に鈴ヶ森で磔になっている。いわゆる「直助権兵衛」一件として「大岡政談」でも取り上げられている。この隆碩が実は小山田庄左衛門だった、という。その縁で鶴屋南北は、裏「忠臣蔵」の『東海道四谷怪談』において、伊右衛門とならぶ悪役スターに起用している。しかし、実際のところはどうなのだろう。
まず「直助権兵衛」一件は実際にあったことである。『享保通鑑』(未完随筆百種)や『月堂見聞集』(随筆大成別巻)、さらには『御触書寛保集成』にまで載っているので、事件そのものは否定できない。こうした材料から、三田村鳶魚も史実と認めて記述している。
ただし、中島隆碩の「正体」はこれらの史料の語る所ではない。わずかに『享保通鑑』が「元浅野内匠頭殿家来にて」云々という風聞を伝えているのみである。浅野家旧臣という事すら確かではなく、ましてや小山田庄左衛門だという証拠はない。もちろんそうでないと断定する根拠がある訳でもないが、軽々しく事実として扱う訳にはいくまい。
単純に考えて、隆碩が小山田なら、こんなところで開業しないだろうと思う。もともと定府で江戸には知人も多かったはずの小山田である。しかも、深川万年町は、まだ「同志」だったころに住んでいた本所林町から目と鼻の先である。変名して素性を隠そうとするなら、もうちょっと別の事を考えるはずだ。恐らく中島隆碩を小山田庄左衛門としたのは後人のこじつけである。
隆碩を小山田にあてた気持ちはわからないでもない。同志の金をくすねて逃げた男、実父・一閑が息子の不参加を恥じて自殺したという話もあり、不忠不孝を重ねたいわば不義士中の不義士である。自らの使用人に殺害されるのも因果応報、いやまことに天網恢々疎にして漏らさずだなあ。
しかし、である。殺害された結果にとらわれずに考えてみれば、存外成功者に数えられるべきかも知れない。『享保通鑑』によれば「有徳」すなわち裕福であり、美人の上に手跡すぐれ近所の娘達に手習いを教えるような妻があった。人柄も悪くはなかったようで、(療治の腕は大したこともないのに)近所から尊敬されていたという。直助に殺されたのも、手癖の悪い使用人をすぐに突き出したりしなかったため、情け深さが仇になったとも言えよう。武家社会からは逸脱したとしても、そんな生き方をあながち非難できないのではないだろうか。
とはいえ、隆碩が小山田庄左衛門である可能性は低い。もしそうなら、という仮の話なので念のため。