もうひとりの大野九郎兵衛

田中光郎

 ウェブ検索すると思わぬ情報に接することがある。
ためしに「大野九郎兵衛」で検索をかけてみよう。もちろん赤穂浅野家の家老だった知房についての記載が多いのだが、それにまじってこんなサイトにでくわす。
 http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/hirota.htm
 (上記アドレスは執筆当時のもので、現在は移転している。2025年7月時点で確認したのURLはhttp://kotaro-iseki.net/sumizumi/08-hirota.html
 「こたろう博物学研究所」では、伊予国内の史跡を紹介している。そのうち広田村総津の立花城跡の記事にその名を見いだす。「橘城 総津村に在り 大野九郎兵衛直周居る大洲秘録には大野九郎兵衛直純とあり 直純は直周の子なるか」(伊豫温故録)
 この大野氏は戦国時代、伊予河野氏に仕えた。中でも有名なのは大除城主・大野直昌(なおしげ)。直純・直周については不分明だが、立花城が親城・大除とともに滅んだとあるから、その一族なのは間違いあるまい。
 問題は赤穂の大野九郎兵衛と関係があるのかどうか、である。伊予大野氏は大伴氏の流れという。はたしてしからば赤穂の家老だった九郎兵衛が牢人後“伴”氏を名乗っていたことと符合する。しかし、家紋は伊予大野氏が木瓜なのに、赤穂の九郎兵衛が杏葉と、あわない。結論からいうと、関係の有無は確かめられないので、今後の検討にまちたい(もっとも誰か既に結論を出しているかも知れないけど・・・)。
 それにしても、これが大石内蔵助とか堀部安兵衛とかいう名前だったら、ただの偶然であっても「先祖」だということにして大騒ぎをするだろう。大野九郎兵衛だから、ひっそりと伝わっているのである。うーん、やっぱり不公平かなあ?