主君の仇討をめぐって

田中光郎

(1)大河兼任

 五味文彦『源義経』(岩波新書)を読んだ。伝説の誕生や成長にも目配りした面白い伝記であるが、その末尾近くで興味深い記述に出会った。藤原泰衡の死後、家臣の大河兼任が蜂起した時に、主人の敵討ちの例を自分が始めると語ったというのである。「実に『忠臣蔵』につながる主人の敵討ちの風習はここから始まったのである」と五味氏は書いている。
 念のために『吾妻鏡』文治六年(建久元年)正月六日条を確認してみる(岩波文庫)。
「爰に兼任、使者を由利中八維平の許に送りて云ふ『古今の間、六親若しくは夫婦の怨敵に報ずるは、尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独り其例を始めんが為に、鎌倉に赴く所なり』者」
 兼任の挙兵を仇討ちと認識してよいかどうかは、問題の残るところであろう。これを仇討ちと認めても、主君の仇討ちが本当に前例のないことかも疑問になる。しかし鎌倉初期にこういう発言がなされ、そして幕府の歴史書に記録されたということの意味は小さくあるまい。敵討ちの歴史を考える時に意識しておいた方がよい事象のひとつである。

(2)予譲

 これを仇討と認めてよいかという疑問があるとしたのは、いわゆる「仇討」範疇よりは「弔い合戦」に近いものという印象を持ったからである。ただし、山崎の合戦が仇討番付でランクインすることからもわかるように、近世人の感覚でも明瞭に範疇分けをする必要のないものと考えられる。
 しかし、殊勲の仇討が先例のないことかというと、これは問題である。江戸時代のたとえば『仮名手本忠臣蔵』の作者なら、中国の先例を容易に指摘できたはずである。そう、「晋の予譲、日本の大星、唐と大和にただ二人」と書いた、あの予譲である。同じ作者が『義経千本桜』では「晋の予譲の例しをひき、衣を裂いて一門の恨みをはらさん」とやっている。近世人にとって予譲の名は親しいものであった。山本周五郎が名編「よじょう」を書いたのも、そういう文化的下敷きがあってのことに相違ない。
 予譲の話は『史記』の「刺客列伝」に見える。しかし、これが近世日本でこれほど流布したのは『小学』が採用したからだと思われる。朱子学では初学の段階で「主君の仇討ちをする忠臣」に出会うカリキュラムになっていたのである。林鳳岡や室鳩巣などの朱子学者が赤穂義士を称揚したのは、偶然ではない。大石らの行動が儒学の精神に則ったものであるという意味でなく、朱子学者が教条主義に走ったという意味でもなく、武士の行動が道学の教科書と(すくなくとも外形的には)一致したという現象を彼らは見たということなのである。

(3)雄略天皇

 主君の敵討ちの先例として、中国の予譲では話にならん、日本で探せ、と言われるかも知れない。古代・中世にはあまり強くないので、ぴったりしたのをすぐには思い出せない。史実というには語弊があるが、雄略天皇のケースなどはどうだろうか。
 日本史上最初の敵討ちとされるのが目弱王(『古事記』の表記、『日本書紀』だと眉輪王)である。安康天皇は弟の大長谷王子(のちの雄略天皇)と若日下王を結婚させようと考えた。そこで、若日下王の兄(安康天皇には叔父にあたる)大日下王に縁談をもちかけた。大日下王は承知したのだが、使者にたっていた根臣が結納の品である「押木の玉縵」をネコババして、大日下王を讒言。安康天皇は大日下王を討って、その妻・長田大郎女を皇后にしてしまった。ある日、天皇が皇后に「連れ子の目弱王が成長して、吾が自分の父親を殺したと知ったなら、逆心を起こしはしないか心配だ」と語った。これを聞いていた七歳の目弱王、寝ている天皇の首を切ってしまった。
 日本最初の敵討はここまでだが、そのあとが今回の本筋。目弱王は都夫良意富美(『書紀』だと円大臣)の邸に逃げ込んでしまう。これを知った大長谷王子、兄の黒日子王・白日子王のところに相談に行くのだが、兄たちの腰は重い。「天皇でもあり、兄弟でもあるのに、どうしてそんなにのんびりしているのだ」と怒って、これを殺してしまう。そのうえで兵をおこして都夫良意富美の邸を襲撃し、目弱王ともども討ち取るのである。
 雄略天皇は倭王武に相当するとされ、実在の人物といってよい。とはいえ、この話、もとになることはあったとしても、史実というより説話ととらえた方が賢明ではあろう。そして、説話としてみれば色々な解釈が可能になるだろう。兄でもあるが主君でもある安康天皇の敵討、という解釈も十分成立すると思われる。  この話、天皇家の特性を捨象してみれば、武士階級成立以前からある日本の敵討習俗を理解する手がかりを提供してくれるものといえよう。安易に同一視する事は避けなければならないが、近世までつながる何かを持っているように思われる。たとえば、目弱王をかばいとおす都夫良意富美の姿勢には、武家屋敷駈込慣行に通底する心性を感じないだろうか。雄略天皇が皇位継承権を得たのを、復讐の事実と関連づけて考えるならば、敵討と相続を連続してとらえようとする立場(これは以前指摘だけしておいてそのままになっている)からは有利な材料となるものと考えられる。
 それにしても、雄略天皇という方は日本の敵討慣行に実に多大な貢献をしている。従兄弟にあたる市辺の忍歯王を殺害しており、その子の顕宗天皇をして復讐の志を起こさしめている。内容は今の話柄と関係ないのでしばらく略すが、父の仇は討たねばならぬという考え方と、天皇を頂点とする秩序とのかねあいが問題になっていることは覚えておきたい。

(4)主君の仇討の少ない理由

 「大河兼任」の言葉から、なんとか平安ころの武士が主君の敵を討った先例を探そうとしているのだが、どうもピッタリしたのが見つからない(古代・中世に詳しい方、御教示たまわれば幸甚です)。かわりに、といってはなんだが、主君の仇討ちの少ない理由がなんとなくわかったような気がしてきた。要するに、そんなシチュエーションがあまりないのだ。
 合戦の中で主君が討ち死にするような場合、仇討ちをする候補者になるような武士はまず間違いなく運命を共にする。間違って生き残ったらそれこそ恥辱なのだ。佐伯経範(『今昔物語集』25)や樋口兼光(『平家物語』)の行動を見れば、明らか。まあ樋口が義経の首をとるような戦ができたら「敵討」にいれても貰えるだろうが、大将の討たれた負け戦ではほとんど起こりえない。死地に飛び込むようなやり方は「敵討」よりは「殉死」に近い。
 そこまで殿様につきあう義理のない家来は、当然敵討ちなど思いもよるまい。気持ちのある武士が死に急ぎもせずに生きながらえるとすれば、先君の遺児を盛り立てようと言うような場合くらいではないか。この場合は、その遺児が親の敵を討ちに罷り出ることになるから、その手助けはするとしても、主君の仇討ちではないだろう。
 と、まあこんな風に考えてみると、主君の仇討ちなどという現象はよほど色んな偶然が重なったレアケースということになる。そんなにピッタリとした例が見つからないのも仕方ないのかも知れない。そういえば、赤穂事件の場合だって本当に敵討ちと言えるのかという論争があった訳で、ピッタリした例ではないとも考えられるだろう。

主君の仇討をめぐる雑感、とりあえずここまで。