本居宣長の著作の中に『赤穂義士伝』一巻がある。現物は本居宣長記念館所蔵、翻刻が全集(筑摩書房)第二十巻に収載されている。
といっても、宣長が赤穂事件の研究をしていた訳ではない。まだ本格的に学問をはじめる前、15歳の時(延享元年9月)樹敬寺で実道和尚が説法のついでに語った内容を筆録したものである。少年・宣長の記憶力抜群であったことを証明するものと、研究者の間では位置づけられている。
そういう事情で、赤穂事件の史実の解明にはあまり参考にならないのだが、伝説の誕生・成長を考える上では貴重な資料といえるだろう。松阪のような地方都市で、無名の僧侶が無名の少年らに語った赤穂義士の物語の速記録である。筆記者が後に高名な学者になったにすぎない。しかも年次が延享元年(1744)、事件から約40年後、「仮名手本忠臣蔵」初演(1748)の少し前である。「仮名手本忠臣蔵」の作者たちが聞いていたであろう義士の物語を、推測する手がかりを提供してくれるのではないか。 実道和尚の種本は「大石ノしゆかん」というものだったらしい。「大石手簡」だろうという全集編者の説は当然として、具体的にどういうものだったかは判然としない。内容から見て、奇説は少なく、まじめな実録系統の書物だったのであろう。
少し気づいた点をあげてみよう。 刃傷の原因については、賄賂・畳替・装束違いが出ている。これは「義士伝」の主流にして、映像作品でも大体漏らさぬところ。日本人の赤穂事件認識には「仮名手本」の影響の大きかった事が言われるのではあるが、『太平記』の世界から顔世御前を持ってきた「忠臣蔵」の世界の方が孤立している。
刃傷の後、使者は「ハヤ馬」で向かっている。やはり江戸時代には早馬だという認識が一般的だった。
浅野の切腹では辞世も片岡主従の別れも登場しない。都の錦やその系列の作品は、実道和尚には影響を与えていないようである。かわりに家臣一同が障子をへだてて対面を望んでかなえられないという場面になっていて、「仮名手本」が似た状況を設定しているのは興味深い。長矩が障子の向こうの家臣に聞こえるように上野介への恨みを述べて死んでいくというのも変わっている。
不思議なことに、寺坂吉右衛門をめぐる話柄が登場しない。かわりにかなりクローズアップされるのが愛妾おかるの存在で、かなり積極的に関与している。おかる勘平は「仮名手本」のオリジナルだが、その前提に肥大したおかる伝説が存在したことは、注意しておいてよいと思う。
まだまだ読み込めば興味深い話柄が見つかりそうではある。ちょっと気にとめておきたい物である。