加西市版『赤穂実記』について

田中光郎

 先日古書店で加西市の『赤穂実記』を入手した。これは市内の旧家から発見されたものを平成7(1995)年に市教委が翻刻・発行したものである。
 原本は4冊。内容は一見して『介石記』の異本というべきものと思われる。注目すべきはその書き出し部分。「凡忠義のために其死をかへり見ず」云々の10行分が、『内侍所』(例によって赤堀刊本pp.70-73)とほぼ同文だということである。
 このことが何を意味するのか、軽々に判断はできない。しかし“宍戸円喜=都の錦”の義士伝諸作と『介石記』の密接な関係を考えたとき、この事実に少しく意味の出てくる可能性もないことはないように思われる。色々な可能性があり、断定するには早いのだけれども、『赤穂実記』が都の錦の手になるものだというのも、一つの解釈として成立するのではなかろうか。
 『赤穂実記』全編の著者は泉岳寺の僧・香円ということになっている。ほかに四十六士が預けられた四家の重臣なども参加して作者十四人というのだが、これはどう考えてもおかしい。解説の八木氏はこれを基本的に受け容れる姿勢だが、当方はどうもそう純真にはなれない。この手の“騙り”は都の錦っぽいような気がするのである。
 末尾にこんな文句がある。「誠なる武士の鑑と残す赤穂記」。原題は「実」の字のない『赤穂記』だったかも知れない。都の錦のことを書いているらしい『三千風形見車』に「自作の赤穂記一巻」を懐中に九州に向かったことが書かれている(岡本勝『近世俳壇史新攷』)ことを想起すると、彼の義士伝の最初は『赤穂記』であった可能性なきにあらず。『内侍所』の参考書にも『播磨椙原』などと並んで『赤穂記』がある。うーん、香円『赤穂実記』=都の錦『赤穂記』だとおさまりがいいなあ。
 直接証拠として筆跡鑑定ができればよいのだが、これは私の手に余る。横田家本の写真の筆跡は、似ているような気もするが、そうでもないかも知れない。もっとも横田家本が原本だと定まった訳でもないので、筆跡が違っても香円が都の錦でないという証明にはなるまい。
 この書が『介石記』の異本といってよいような内容であることは既述の通りだが、第四巻は不一致の記事が多い。ことに「上使之事」以下は対応する記事がない。もっともそれが創作かというと、そうでもなさそうで『赤穂鍾秀記』に同内容の部分が見られる。作者が『鍾秀記』を見ていたか、共通の原典があるのか、焦って結論を出すのはやめておこう。ともかくも、『介石記』になくて『鍾秀記』および『赤穂実記』にある主な記事として@切腹を命ぜられた大石が「徒党にあらず」と抗弁するA母への遺言を問われた主税が今更言うことはないと健気なところを見せるB吉良左兵衛配流、などがある。
 ところで『穐寝覚』にはこのうち@Bが見られる。宍戸円喜=都の錦の著作と『赤穂実記』の類似は、こんなところでも確認できるのではある。結論は、まだない。いろいろな可能性が考えられる、ということである。