堀内伝右衛門の一族

田中光郎

 吉良邸に討ち入った浅野家旧臣のうち17名を預かった細川家で、もっとも親身に世話をした堀内伝右衛門。その周辺を自身の筆記『旦夕覚書』などからさぐってみようというのが、本稿の目論見である。現時点では甚だ不十分で体裁も整っていないが、致し方ない。大方のご叱正をあおぎ、より深めていきたいと思っている。

(1)堀内安房守とその周辺

 堀内伝右衛門の先祖は、同族の提出した先祖附(『続肥後先哲偉蹟』五、堀内坤次条所載)によると、堀内安房守だという。紀州熊野別当の末葉で、新宮城主だった。その弟・半助の子が構之助で、池田三左衛門輝政に仕える。構之助の養子・三郎兵衛の代に、その子角兵衛ともども浪人し**、のち角兵衛が寛永18年に細川家に仕えることとなった。
 上述の通り、堀内氏は紀州熊野の神官の出身であるが、戦国期には新宮城主としてかなりの勢力を有していた。織田信長・豊臣秀吉に服属した安房守氏善は、『寛政譜』によれば紀伊新宮を安堵され二万七千石を領していた。関ヶ原では西軍に属したため、所領を失った。紀伊加田村に蟄居した後加藤清正に預けられたらしく(戦後逃走したとの説もある)、元和元年4月10日(一説元和2年4月17日)肥後熊本で没している。享年67(一説64)。
 なかなか波乱の生涯を送った氏善であるが、その直系は旗本として生き残っている。氏善の子・主水氏久は大坂陣で籠城組だったのだが、あの千姫を坂崎出羽守に送り届けた功労により、500石で召し抱えられた。『寛政譜』にこの家の記事があるのはそのためである。
 ただし、ここには安房守弟半助についての記載はない。安房守の弟としては、若狭氏弘という人物が見える。大坂方に属したが、氏久の功に免じて許され追放になったというのが『寛政譜』である。別名を新宮行朝と言い、その後藤堂家に仕えたというが、よくわからない。若狭が半助なのか、他にも弟があったのか、不明である。
 安房守が肥後で没している事は注意しておいてよいだろう。肥後の堀内家と旗本・堀内家の間に交際があったかどうかは今わからない。なお、旗本の方は「ホリノウチ」と読んでいる。

慶長18年の「播磨宰相様御侍帳」(『姫路市史』10所収)に500石の堀内構之介の名が見える。同一内容とされる「備前侍帳」16ページでも確認できる。特に誰かの組に属する訳ではないので、客分のような形だったのかも知れない。
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寛永10年の岡山藩の『侍帳』には300石の堀内三郎兵衛が確認できる。しかも、肩に「退去」の文字が見える。

(2)祖母・妙庵と叔父たち

 『堀内伝右衛門覚書』に、礒貝十郎左衛門の母親や富森助右衛門の母親をほめた文に続けて、細川家にもこれに劣らぬ女傑があったと述べた箇所がある。そこにさりげなく「我等祖母なども同前」と書いているが、彼女についての記述が『旦夕覚書』に見える。
 伝右衛門の祖母・妙庵は、堀内構之助の一人娘であった。幼少の時は鬼松という名で(女の子に鬼松!)ことさら可愛がっていた。十二、三歳ころまでは主君・池田輝政の通行の際に連れて行き、お目見えさせた。輝政も御機嫌で「鬼松出たか、堀出たか」などと戯れていたという。
 構之助の養子の三郎兵衛というのは、この鬼松=妙庵の夫であろう。子供が四人あって、伝右衛門の母になる女子、八右衛門、角之丞(角兵衛、角入)、文左衛門(不白)となる。
 つまり、堀内安房守の系統は伝右衛門の母方だということになる。父・三盛の血統はどうなっているのか、よくわからない。別系の堀内氏なのか、入婿なのか、あるいは一族内で結婚したのだろうか。わかっているのは、堀内一族で最初に細川家に仕えたのが三盛だということである。『旦夕覚書』には「同名中堀内と申せは本老父より初御家に参候」とある。角之丞が細川家に仕えたのが寛永18年(先祖附)、三盛は寛永9年肥後入国の際の宿割に名が見えるから(『綿考輯禄』54)小倉時代には既に臣従していたはずである。恐らくは三盛が三人の義弟を推挙したものと考えられる。

(3)伝右衛門の兄

 堀内三盛は医師200石である。200石の医師の生活というのがどんなものかよくわからないが、伝右衛門が生まれた頃の堀内家はかなり苦しかったらしい。後に屋敷を拝領した時に、ボロ屋であることを指摘され「御家中一番のすり切にて、奥に天井も無御座、しふ紙をはり申所にて生れ申たる私故に、親より者過たると存候」と答えている。しかし俗諺に貧乏者の何とやらいうとおり、三盛は子福者であった。
 男の子は4人。ひとりは父の名と地位を継いだ三盛。もうひとりは伝右衛門といっしょに士分に取り立てられた喜左衛門。『旦夕覚書』に内入(隠居名であろう)という名で登場しているのが喜左衛門と思われる。伝右衛門5つの時内入9つというから、4歳年長である。ほかに是安という兄があったが、これは早死にして跡継ぎもなかったようだ。要するに、伝右衛門は四男という計算である。
 ほかに女子(伝右衛門の妹)があったらしいが、詳細は不明である。

(4)土之進の死

 伝右衛門の結婚は遅かったが、それでも一子・土之進をもうけることができた。ただ、不幸にして元禄13年に早世した。当時伝右衛門は江戸詰で、国許から手紙で知らされたのである。親友の家老・山名十左衛門も「此節忠義の出候所」と激励の伝言をよこしてきた。
 細川家ではほんの一月前、7月21日に世子・与一郎が14歳で亡くなっている(海岸紹珠恵雲院)。余談ながら弟の内記吉利も18歳で他界、跡を継いだのは綱利の甥にあたる宣紀だった。それはともかく、1月おくれで8月16日に堀内土之進が死んだのである。伝右衛門の心中いかばかりか。
 本人の言によれば「恵雲院様の時力を落とし・・・心中にて引くらへ見候に、神以土之進時には万事軽く覚候」というのだが、これはどうだろう。強がりのように感じるのは、現代人の病だろうか。
 藩主・綱利にも聞こし召し、このさき子供を作るのは伝右衛門のためになるまいから養子を持たせよとの御意。伝右衛門はもともと末子で堀内の家名を伝えるものは他にあるから断絶しても構わないと辞退するが、自分の代に取り立てた者の家が断絶するのは不憫だという思いを聞いてはそれ以上否めもしない。
 養子の選定については当初堀内一族からを考えていたのだが、村井源兵衛のアドヴァイスを容れて妻の弟を養子にすることとしたのである。

 堀内伝右衛門の親族調べ、これで完成という訳ではないが、とりあえず備忘録がわりにまとめてUPしておく。お気づきの点などあれば御示教たまわりたい。