山名十左衛門と大木舎人

田中光郎

 前回「堀内伝右衛門の縁談」に登場した二人の家老、山名十左衛門と大木舎人も一廉の人物であったらしい。いずれも『続肥後先哲偉蹟』に記載がある。

 まず山名十左衛門だが、名は重澄、致仕後聴水と号した。享保6年(1721)に76歳で亡くなっているので正保3年(1646)生まれという計算になる(堀内伝右衛門の一歳下)。細川幽斎の実弟を先祖にもつ名門で、兄の死でいったん断絶したものの、寛文5年に新知1000石で召し出され、延宝8年に家老に就任、5000石まで加増され、享保元年に隠居するまで勤め上げた。(なお子孫は三淵に改姓している)
 まだ家老に就任する前のこと、延宝元年(1673)だから28歳の時である。藤田助之進と前川勘右衛門が不和となり、双方ともに浪人ということになった。藤田は熊本退去に際して前川に北の関(現在福岡県山門郡山川町。筑肥国境にあった松風の関の北側、ということらしい)というところで果たし合いをしようと言ってきた。山名十左衛門は前川の一類という事でこれに助太刀した。手傷一カ所負ったものの藤田父子を討ち取ったのである。
 この一件、私闘ではあるが、出世の邪魔にはならなかったどころか、後に北関を通った綱利が「天下静謐の時節、家老職に其方を持候儀、世上希有之事と存候」と感状を発しているように、高く評価された。元禄の世に果たし合いの経験のある家老など、そうはいるまい。腕に覚えもあっただろうし、それ以上に、頼まれたらいやと言わない侠気の持ち主であったろう。堀内伝右衛門と家格を超えた友人づきあいがあったのも宜なるかなと思われる。

 もう一人の大木舎人兼近、致仕後夕岸と号す。享保2年没だが、享年を68歳とする説に従えば慶安3年(1650)生まれということになる。伝右衛門より5年、山名十左衛門より4年の年少である。『堀内伝右衛門覚書』には、馬のことについて話を聞いた相手として登場する。
 舎人については赤穂事件がらみの逸話がある。浅野刃傷事件のころ、ちょうど江戸勤務を終えて熊本に出発するはずだったが、赤穂で籠城という噂がでたので、病気ということにしてしばらく出発を延期し決着を見届けることにした。そのための指示をしたあと「さりながら」と舎人は続ける。「赤穂の籠城は根も葉もない噂であろうよ。赤穂の人間になったつもりで考えてみるに、今籠城して何の益があろう。城を渡して、時節を待ち、相手を討つこそ本望だ。赤穂は小藩だが、人らしい者も10人くらいはあるだろうから、これほどのことは誤るまい。が、まあ、こういう噂が立ったからには聞き捨てにもなるまい」
 ちょっと出来過ぎの感じもないではないが、舎人の人物というのはよく出ている。

 山名十左衛門の決闘に関連して、こんな話もある。
 舎人が江戸家老だったとき、幕府の巡検使が派遣されることになった。ところが、そこで穏やかでない噂。山名十左衛門に討たれた藤田の2子が、巡検使の家来になって熊本に潜入し山名を討とうとしているらしい。で、これを聞きつけた舎人は病気だと居間にこもってしまった。
 家来達も様子がわからないのだが、どうやら書き物をしている様子。八つ半頃、というから午後3時くらいだろう、家司の宇田弥二兵衛を呼んでかねて昵懇の旗本某に使いを出せという。使者が手紙を持参すると、ほどなく某が来訪。家来も遠ざけて密談する。その日は帰って、翌朝また来る。料理を出してもてなす。そんなこんなで出仕せぬまま。実の病気とも思われず、みなみな気遣っていると、十日ほどしてまた宇田を呼び、「今日は心祝いじゃ。そちも喜べ。訳は後で話すから、盃・料理の支度をいたせ」という。
 やがて舎人が宇田に話した内容。「実は旗本某殿を通じ、ひそかにある老中に願書を提出していたのだ。もしその願いが叶わなければ、宇田よ、そのほうに人数をつけて巡検様の行列を襲撃させるつもりだった。そうなればそちは天下の罪人となり、わしも家来の不調法のために腹を切らねばならぬ。その覚悟で今日までまいったが、先刻の留守居回状には『御巡検衆、今度諸国へ下候に、敵持たる者など堅く召し連れ申さぬように念を入れ吟味遂ぐべし』云々とあり、書付の願いの通りなった。それで、そなたもわしも命拾い。御存知もなきことながら殿へも御安堵、かたがたもっての心祝いじゃ。」
 この一件、大木が家老だった時という条件だと、恐らく延宝9=天和元年(1681)のことである。ただし、敵持ちは召し連れるなという幕令は確認していない。前年延宝8年に家老に就任したばかりの32歳という計算。ちなみに山名も同じ時に家老に就任しており、このあたり細川家の人事に意味がありそうにも思われるが、今はそこまで詮索が及ばない。

 山名十左衛門が血気にはやる武闘派とすれば、大木舎人は冷静沈着な知謀派と言えようか。とは言え、巡検使襲撃も辞さぬ覚悟となれば、こっちの方が危険かも知れない。十左衛門が遊び好きなのに対し、舎人はまじめ一方だったと伝右衛門は書いている。絶妙のコンビだったには違いない。
 目のよるところに玉、というか、類は友を呼ぶ、というか。我等が硬骨漢・堀内伝右衛門の周囲の人物は、一癖も二癖もあるのである。