堀内伝右衛門の縁談

田中光郎

 御預け中の浅野家旧臣に親身に世話をした事で知られる肥後藩士・堀内伝右衛門には、その時の記録である『堀内伝右衛門覚書』のほかに、『旦夕覚書』という書き物を遺している。『肥後文献叢書』に収められているので手軽に読む事ができるのだが、これがなかなか面白い。

 若い時の話である。伝右衛門は家老の大木舎人・山名十左衛門と親しくしていたのだが、その舎人のところへ重臣・小笠原備前が伝右衛門の縁談を持ち込んできた。相手は細川家家老・有吉四郎右衛門の老臣・菅次太夫の妹である。菅は陪臣とはいえ有吉の名字を許されるほどの家柄だから、つりあわぬということはない。話の出所は有吉で、話がまとまれば「四郎右衛門上下のぬき所にも致度心」というのだから、有吉家との縁組みと言ってもいいほどの見込まれかたなのである。この話、舎人から叔父・角之丞を通じて母のところに伝えられた。その時は伝右衛門留守にしていたので、帰宅してから母に聞かされたのである。
「母上はどう思われる?」
「私は女のことでよくわからぬから、『角之丞どう思うかの?』と聞いてみました。
 角之丞は『私も良いとは思えないのだが、舎人殿のお頼みゆえ姉に伝えましょうと言ってきました。四郎右衛門殿が十左衛門殿に頼むはずだ、と舎人殿はおっしゃっていましたから、そうなら両御家老が伝右衛門に目をかけての縁談ということになりますから、お断りもなりかねるでしょう。舎人殿は江戸出立前で返事を急いでおいでですから、伝右衛門が帰ったら伝えて下さい』と言っていました。
 ほんに気遣いな事じゃ。文左衛門(もう一人の叔父)にも相談してくれるように角之丞には言ったのだが・・・」
などと話をしているところへ、十左衛門から伝右衛門を呼びに来る。
「私はしらぬことじゃが、両御家老様の御肝煎ではいやといわれまいから、よくよく分別して下され」
「いやいや少しもお気遣いなされますな。御両人とも御心安く言って下さっているので、私の思うようにいたします。角おじが参られたら舎人殿へもじかに参ってお話ししますからとお伝え下さい」と言って出発する。

 場面変わって山名十左衛門の屋敷。
 十左衛門、笑いながら「何か変わった事はなかったか」という。
「先刻、舎人殿から角之丞を通じて母へ難題をふっかけられました」
「こちらへも先ほど四郎右衛門殿がおいでになってな、こうこうかよう、舎人殿へは備前から頼んだそうだ。これはまあ一段の事」と、あたかも賛成するような口ぶり。
 伝右衛門「御誓言が承りたい」という。
 対して十左衛門は「いや誓言には及ぶまい」と応ずる。
「私には何とも合点が参りません。私が舎人殿やお手前様と御懇意願っておりますことは太守様も御存知のはず。御両所様に何かの筋目があるというわけではありませぬが、前髪のころより御馬屋で毎度お目にかかって以来の事です。その後お二人様には重職に上られましたので、以前のことを知らない家中のなかには軽薄で取り入っているように言う者もありますが、夏の川狩・冬の鴨狩の拝領物のあるたびにお二人様にかわるがわるお呼ばれして参りました事は、知らぬ者もありません。この縁組みを承知したらば、二度が二度とも四郎右衛門殿へ参らねばならなくなうことを思ってみても下さい。なにとぞ、なにとぞよろしきようにおっしゃって下さい」
 舎人や十左衛門とは言ってみれば心の交際。家老に取り入るへつらい武士と一列に見て下さるな、というのが伝右衛門の気持ちである。これには十左衛門も心を動かされ「ともかく舎人に行って話してみよ。私も舎人と相談してみよう」というので、そのまま舎人を訪ねる。

 場面変わって舎人の屋敷。
「何と、何と。御母堂の返事を角之丞が持ってくるのを待ちかねていたぞ。さ、これへ、これへ」
「さてもさても迷惑な儀を十左衛門殿が申されますのでじかに参上致しました」
 これには舎人ちょっと面食らって「何と」というので、伝右衛門側に寄り
「十左衛門殿にもこれこれでお断り下さいとお願い致しましたのに、お手前様でじかに承るようにと言われたので参りました」という。
「十左にいったという話だが、二度が二度とも四郎右に行けばよいではないか。十左へ参らずとも少しも苦しからず」
「いや御両所様はそれでよろしくても、筋目で参りますのはこれまでお二人様に参っていた私の心と違います。四郎右衛門殿へ参りますのは迷惑千万。家中上下の侍が四郎右衛門殿への出入りを求めておるようです。そのことを十左衛門殿にも申し上げました」
「いかにも家中での評判を気にするのは、殿のお耳にも達するかという懸念があるのであろう。貴殿の考えは我等から残らず申し上げよう」
「いや殿様はそうでも家中一同に言う事はできますまい」と押し問答。結局結論は出ずじまいだった。
帰り際に舎人は「江戸に出立しなければならぬが、このことのらちがあくまでは出発しないから毎日来るように」といい、伝右衛門も「明日参ります」といって帰っていった。

 ところが、その後伝右衛門一向に舎人の所へ行かない。そればかりか角之丞や文左衛門とも顔を合わさぬように気を付けている。というのは、どうするか決まっていない事なら談合するが、これは自分一人で結論が出ている事である。家老の肝煎を断るのも、こちらに言い分のあることであるから、家老ともあろう人が無理強いするものではない、と考えたからである。
 しばらくして角之丞が舎人の使者としてやってきた。
「舎人殿は『伝右衛門と直に話したが、なるほど伝右衛門の申し分はもっともに思われるので、この縁組みはとりやめる。外によいのがあれば肝煎りするので心やすくおれ』との懇ろなお言葉であったぞ。急ぎ礼に参れ」
 そこで、伝右衛門また舎人の所へ。
「さてさて忝なく存じます。それから、御両所様の肝煎に背いた縁組みは遠慮せよと言う者がありますが、私はそう思いませんので、今後ともかりにお気に召しません縁組みでも私の心で決めますので、さよう思し召し下さい」
「いや、それはならんぞ」
「これは御無理をおっしゃる。心のままに妻を求めるのまでおのおの様へ申し上げるのは憚りと存じますので、きっと自分で決め申す」と言って笑いながら帰ったのである。

 家老の肝煎りの縁談を断ったばかりか、以後勝手にすると宣言までしてしまう。伝右衛門、若い頃から相当のへそ曲がり、いや快男児であったようだ。