堀内伝右衛門の人柄

田中光郎

 前回の更新から1年近くを経過している。公私ともに多事で手が回らなかったというのが実情だが、言い訳をしても始まらない。やむを得ず大昔(日付を見ると四半世紀前だった)の旧稿(未発表)を引っ張り出してくることにした。これを書いたころは『旦夕覚書』も見ていなかったので、いずれその記事も参照して大幅な改訂をしようと思ったきりになっていたものである。今読みかえしてみて、未熟な点はともかく、それなりにまとまっているように思われるので、最小限の手直しだけでUPすることとした。他日全面的に補訂したいので、事実誤認などの御指摘をたまわれば幸甚である。

(1)はじめに

 堀内伝右衛門重勝は細川越中守綱利の家臣である。元禄15年12月(伝右衛門58歳のとき)、吉良義央を討って自首した旧赤穂藩士46人のうち、首領・大石内蔵助をはじめとする17人が細川家に預けられた。この際に堀内は彼らのために大いに尽くし、また話を聞き取って『堀内伝右衛門覚書』を遺した。
 この『覚書』は赤穂事件研究のための貴重な史料であることはいうまでもない。しかし、価値はそれにとどまるものではなく、元禄を生きた堀内伝右衛門という武士が自己とその生き方を語った書でもある。私は、ほぼ同時代に隣藩佐賀で成立した『葉隠』をしばしば想起せざるを得なかった。
 本稿では、赤穂義士ではなく、堀内伝右衛門の人物像を描いてみたいと思う。なお、以下の引用は『赤穂義士纂書』所収のテキストによる。

(2)世話好きの感激屋

 伝右衛門が義士一党に親切にしたのは、彼が感激しやすい性質だったことと世話好きだったことによるだろう。
 彼が「多感な老人」であったことは、『覚書』の随所にみてとれる。預人の些細な言動や周辺人物の話などにすぐ感じいってしまう。礒貝十郎左衛門の母(貞柳尼)・兄(内藤万右衛門)を訪ねた時、「二度と十郎左衛門の消息を聞くこともないと思っていたが、堀内様においでいただいたのは誠に氏神様のお引き合わせ」と喜ばれたときなどは「惣体涙もろく、兎角の返答成兼」という有様である。
 こんな伝右衛門だから、この義挙に感激しないはずはない。家老の三宅藤兵衛の「今度の一件咄候事堅無用に候」と言われたって納得しない。「今度の儀は古今不承及忠臣」だし「高名咄は武士たる者の習」である。。とかくスキをみて聞こうと思うがどうだと、平野九郎右衛門・堀内平八に持ちかけて、実行してしまう。

 話を聞くばかりではなく親身になって世話をしたのは、一挙への感動とともに世話好きの性格があずかって大きい。これは父親譲りの性分である。伝右衛門の父・三盛は「人の為には身命を惜み不申生れ付」だった。その息子である伝右衛門、身命を惜しまず一党のために奔走することになる。
 周知の通り、かれは義士の親類縁者知己を訪ね歩き、書信や近況を伝えている。しかしながら、これは幕命に違反する行動だった。御預けの節の幕府の指示は、「書通は無用、(届け物は)依品苦間敷由」というものだった(『細川家御預始末記』)。差し入れくらいはOKだが、書状は来るのも不可だったのである。
 伝右衛門の行動を知った中瀬助五郎が「今度の儀は誠に大事の事に候。不及申候得共、能々御心得候へ」と忠告してきたのは、当然であろう。助五郎は綱利に従って秋元但馬守邸に行った時、寺田九兵衛(奥田孫大夫の舅)から伝右衛門のことを聞いたらしい。恐らく九兵衛の発言は伝右衛門の好意に感謝してのものであろうが、迂闊といえば迂闊な話である。助五郎は伝右衛門とは遠縁(従兄弟の妻の縁らしい)で好意的(「我等に心入」)であったから大事に至らなかったが、相手次第では恩人・伝右衛門の立場を危うくしたに違いない。もっとも当の伝右衛門は「兼て覚悟」していたことであるから少しも驚かず、ただ「扨々忝存候。いかにも得其意申候。」と答えただけである。
 その覚悟とはどんなものであったか。もし彼の行動が露見して吟味にあうようなことがあっても、主家に累を及ぼさぬように、口上書を懐中していた。
 主君越中守は常々幕府の法度を守るように申し付けており、今度の御預けについてはことに念を入れるようにと家老からも注意があった。しかし私は存生のうちに消息を伝えたいと思い、主人の為にならないようなことはないからと住所を聞き出して訪ねていった。「兼て越中守念を入申儀を背申たると奉存候へば、私儀は不忠に罷成候。此段是非に不及奉存候。此外別に申上候儀も無御座候。」
 こう言って相果てるつもりだったという。他人の世話をするのも、命がけ。尋常の覚悟ではつとまらない訳である。文字通り他人のために身命を惜しまぬ行動は「亡父草の蔭にても心に叶」うものであろう。

(3)「御家人」意識

 「不忠に罷成」る覚悟をしていたとしても、伝右衛門が不忠であったわけでは、もちろんない。かれらに親身に尽くすことが細川家のためにもなるという確信があったことは疑いない。伝右衛門には細川家の「御家人」であるという強い意識があり、これもまた父・三盛から受け継いだものであった。
 そもそも伝右衛門は200石の医師・堀内三盛の末子である。それが22歳のときはからずも歩(徒士)の使番として召し出された。父の喜びはいうまでもない。「明朝喜左衛門(伝右衛門の兄であろう)とともに妙解寺へ参詣せよ」と言う。喜左衛門が「妙解寺へは中小姓以上が参るので、歩の御使番なら参らぬはずだ」と答えると、怒るまいことか「御代々に懇ろに召し使われただけでも重恩であるのに、このたびは一類まで召し出されたのだ。御恩はますます重い。誰が何と言おうと構わぬから参詣いたせ」と譲らない。二人は翌朝参詣したが、さすがに人目を恐れて夜の明けぬうち、寺門の開かぬうちに済ませたのであった。
 代々の恩に対する感謝は、慣例法式さえ超越せざるを得ない。父の強烈な譜代意識を読み取るべきである。武士の倫理思想を考える場合、譜代意識を無視することはできない。『甲陽軍鑑』や『三河物語』『葉隠』などは、それぞれ武田、松平=徳川、鍋島といった「御家」を離れては存在しない。これらが武士道書であると同時に「御家」の歴史書であった理由はそこにある。「御家」の歴史・伝統こそが彼らの思想の支柱であった。「御家の事を御家人不知して、他家の人尋申候時『不存』と申し候は不心掛」だという伝右衛門も、「御家来としては国学心懸くべきことなり」という『葉隠』と同じ立場に属している。だから御預人たちから「誰それはどのような筋目か」と尋ねられればスラスラと答えられるし、そのほか『覚書』のそこかしこに細川家の故事が散見されるのである。礒貝・富森母をほめたあとで「御当家にも昔は女にも助右衛門・十郎左衛門母義の様なる衆多く有之候」と書いているところなど、ちょっとライバル心を燃やしているようで微笑ましい。

(4)奉公人の心懸け

 伝右衛門は細川家の故事をスラスラ答えて、吉田忠左衛門らに「古き事を能御覚被成候」と感心される。しかし当節は昔の事を軽視する人間が多い。
 井上吉右衛門という者が「このたびは17人もの大勢を預けられたのに、夜具蒲団小袖まで差し支えなく支給したとはさすがに御大名でござる」と感心した。伝右衛門はそうは思わない。「大名というのは常々差し支えないようにしておくもので、妙解院(忠利)様の時代には長崎物の安い時にたくさん買って調えておいたそうですが、このたびは急ごしらえだったようでござる」と答えた。これに対して井上は「これはこれは」と手を振り「そりゃ金銀が少なかったころのこと」と笑う。古人の心がけをバカにする軽薄才子のはやる世の中。「とかく奉公人は大小身共に夜昼心がけ、御為を奉存候ば何事も成まじきものにて無之候。当座流れ渡りの世中口惜候」と嘆くのである。
 そう言えば高田軍兵衛(郡兵衛)の話が出た時、伝右衛門は「定めて平生何をさせてもよい奉公人と誉められるほどの仁でござったろう」といい、「いかにもその通り」と答えられると「左様に能者、本心の実なく世渡の上手。昔も今も多御座候。軽薄を以て出頭人は、主人をだまし候事本心の不実故にて候」と感想を述べている。真源院(光尚)の時代にも難しい仕事を遺漏なくこなす者があったが、光尚は「あの者は何をさせても気味がよいが“一所に被召仕にくく”思う」と言っていたという。「一所に被召仕」というのは、正念場で使われるということだろう。何事も不調法でふだん役に立たなくとも、その「一所の御用」に立とうと真実思う武士は「冥加に叶、天道の恵も可有之」と、伝右衛門はいう。
 『葉隠』なら「何の御用にも立たず、不調法千万の者も、ひたすらに嘆き奉る志さへあれば、御頼み切りの被官なり」と言う所である。同じように考える武士も勿論いただろう。が、多数派というわけではない。言ってみれば時代遅れのへそ曲がりが、つい本音を口にするから、敵もできてしまう。「思ふこと申さねばならぬ我等が、前々より人ににくまれ申事」を自覚してもいるが、どうしようもない。

(5)流行嫌いの道具好き

 当世風の軽薄にうんざりしている伝右衛門、もとより流行などに興味はない。
 片岡源五右衛門が伝右衛門の肩衣に目をつけ「これは何と申すものでござるか」と尋ねたことがある。「これは水衣とかいうもので、若い者の好みでこしらえました」と答えると、「さてさて良い趣味だ。裏の取り合わせまでよろしゅうござる」と手でこすりながら誉めた。しかし、尊敬する義士とはいえ、そんなことを誉められたって少しも嬉しくない。「神以迷惑」なのである。
 逆のケース。御預人達は煙草が好きだったが、藩主綱利は煙草嫌いだったのでおおっぴらに支給することができず、個人的に差し入れていた。ある日、間瀬久大夫と小野寺十内に煙草を渡したところ、二人は煙草入れを返しながら「伝右衛門殿は当世風でない、古人でござるな」と言ったという。凝った趣味のものが流行るなか、素朴な皮の煙草入れを使っていたからである。「天下に名を得たる衆中より古人と被申候段は、我等身に取大慶に存候」と嬉しそうである。
 四、五年以前というから元禄10年ごろのことだろう。磯野弥兵衛という者の考案した槍が流行した事がある。国元の某がそれを作らせるように頼んできたが、伝右衛門はこのタイプがためし物で役に立たない事を見たので「お父上(島原で武功のあった人だという)の槍をまねて作りなさい」と言ってやった。武具は実用本位である。十七人の道具には磯野タイプのようなのは一本もなかった、と伝右衛門は書いている。

 実用本位という視点でなら、堀内伝右衛門は道具好きと言ってよいだろう。衣類の話題では「迷惑」した片岡源五右衛門と、甲冑や旗指物の話をしている時の彼は、ひときわ生き生きして見える。刀の鑑定もしたらしい。矢田五郎右衛門が「伝右衛門殿はお目利きと承った」と持ちかけた時には「大概はずれ申した」と答えているが、これは謙遜。十七人が赦免ともなれば大小を拝領せられることもあろうから刀屋に注文した方がよいのではないか、という話題の出たことがある。堀内平八はこれに反対して、自分らの一族で差し替えを提供する、と主張した。「就中伝右衛門は常に道具好き申候間、能道具共持居候」と言った平八を、伝右衛門はよく言ったと誉めている。行き当たりばったりで刀屋に注文しようなどと言い出す家老への反発もあったろうが、自他ともに許す道具好き・目利きだったことが読み取れる。もちろん「刀・脇指・馬など武士たるものの好事にて候得共、あしく心得候へば博労・取売などの様に成申候」という父の戒めを忘れはしなかったであろう。

 刀剣類と並んで馬を好むのも、武士としてはもっともの事である。吉田忠左衛門・原惣右衛門・堀部弥兵衛から長距離に向く馬の事を聞かれて、すらすらと答えて聞きしにまさる馬巧者と感嘆させている。伝右衛門はまだ騎乗の資格のない頃から稽古にはげみ、ことには舎人という馬好きの話を常々聞き覚えていたので、このように返答ができたのだという。自分に関係ない事とうわのそらに聞いていてはだめで、「武士はいかやうのこと有て大名に可成事はしれぬ事」志は大きくもちたいものだ、と伝右衛門はいう。
 伝右衛門がもっとも重視した武芸は馬術である。相手が生物だからよくよく稽古しておかなければならない。当節は馬が少なくて困難だろうが、心がければできないことはない、と彼はいう。
 これに比べて槍・兵法(剣術)は心の働きだから大体でよろしい、とかなりそっけない。「武芸は上手により申事にては無之候、心次第と見へ申候」というのは「万人を相手に仕てあぐまぬ様成心がけ」を求めるものである。技術ではない、心の修練が重要なのだ。「上手に成候ても武芸の名高き武士は昔は嫌申候」と三盛は言っていたという。「芸能者はすくたるる者なり」という『葉隠』を想起して興味深いところではある。ついでに言うと、細川三斎(忠興)が流行の甲州流軍学を学んだという息子の刑部(興孝)を戒めるところも、流派兵学より鍋島家伝来の「カチクチと申御軍法」を重んずる『葉隠』の姿勢に通じている。

(6)交際

 『覚書』にしばしば示される教訓は、子孫に向けたものである。この『覚書』は、息子の堀内勝助に宛てられているとおり、基本的には子孫のために書かれている。ひとつには武士としての心得を学ばせるために、またひとつには義士関係者との交際を継続させるためにであった。
 伝右衛門は交際好きで、義士に紹介された人々とはどんどん「知人」になっている。最初は消息を伝えるために訪ねても、それで終わりではなく交際が続けられる。遺児についても心配している。世話好き伝右衛門の面目躍如というべきか。そして勝助には「無音被仕間敷候。相応の用事可被承候」と、世話を継承するように要求する。この紙面を見て、我が心底を察し、子々孫々まで申し伝えよというのだ。
 このように子孫に伝えるべき『覚書』ではあるが、一族はもちろん他人でも「実体の志候者」には見せるように、とも書かれている。そのためにこの『覚書』の写本はかなり出回っているようである。かくして広がる知己の輪。この昔気質の好人物を我々が知ることができるのも、義士の余沢というべきであろう。