岡野包住の死亡時期について

田中光郎

(1)問題の所在

 講談「恋の絵図面取り」はもちろんフィクションであるが、その主人公・岡野金右衛門包秀は討ち入り時に23歳と、確かに若かった。浅野長矩刃傷事件のおりはまだ部屋住で九十郎と称していた。赤穂開城に際して父・金右衛門包住とともに大石に誓紙を提出し、その後父が病死したためにその名を襲いで討入に参加したことが知られている。赤穂事件関係の最も優れたサイト「赤穂義士史料館」に最近掲載された「岡野金右衛門」の項目(望月弘子氏執筆)には、その父の死の時期が判然としないことが指摘されている。興味深い問題なので、もう少し絞り込めないか、取り組んでみようと思う。

(2)江戸下りの後か

 討ち入り後に包秀の提出した親類書に、父・金右衛門について「去年死去仕候」と書いてあるから、その死が元禄15年中のことであるのは間違いない。15年のいつになるのか。指標のひとつとなるのは、討入のための東下である。元禄15年秋、浅野大学の処分が決まって一党が下向するが、この時包秀が病気の父をおいて来たと言われる。このあたりの事実が確認できるだろうか。
 手がかりとしては、まず包秀自身が母に宛てた暇乞状がある(『赤穂義士史料』下154号)。(元禄15年)12月4日付のこの手紙の中で「りやうにん様御事うけ給り、かねて存きつたる事なから、わたくし心てい、御推量あそはさるへく候」云々とある。長々の病気で皆看病したので思い残すこともないだろう、この世の中では本人のためにも幸せであろう、よくよく思い切られるように、と続くので「りやうにん」の死去の報を受けてのことであるのは間違いない。この「りやうにん」が包住のことと考えられる。
 ついでながら、同じ頃に亡くなった祖母のことを確認しておこう。多川九左衛門の娘で小野寺又八の妻、貞立尼(大高源五母)・小野寺十内秀和・岡野金右衛門包住の母である。彼女が元禄15年9月9日に京都で没していることは、貞立尼が桜井角右衛門妻(従妹の娘)に宛てた手紙(元禄16年4月20日付、『未刊新集赤穂義士史料』p360)に明らかである。これには母を「めうりん」と表記しているが、貞立が元禄15年閏8月末に京を発ったころには元気だったのに9月9日になくなってしまい末期の役に立たなかったと後悔している。この手紙は一党の切腹後に書かれたもので、若者共を先立てた悲しみも吐露しているのだが、その中に「めうりんやりやうにんハさきだち候てしやわせと存候」とある。この悲しみを見ずに死んだ人々の方が幸せだというのだが、母・「めうりん」と併称されている「りやうにん」が、実弟・金右衛門包住だと推定するのは無理のないところだろう。
 「りやうにん」が包住を指すのなら、その死を「うけ給」ったとある以上、包秀が出立したあとに違いないことになる。

(3)死亡時期の上限

包秀の出立の時期は、いつだったか。12月5日付で花岳寺に後事を依頼した手紙(『史料』下159号)に「当秋其表罷立候節ハ、被召呼候之段」云々とあるが、秋というだけでは当面の問題の役には立たない。ただ、赤穂から出発したことが確認できるのはありがたい。
 岡野一家の開城後の所在について、『江赤見聞記』の載せる同志の「居所之覚」には赤穂のところに「岡野金右衛門」の名が見える。14年暮〜15年春頃の所在と考えられる。また、ほぼ同じリストが『堀部金丸覚書』にあるが、こちらには「岡野九十郎」とある。上述の親類書に母・妹を「赤穂田井村ニ罷在候」とあるから、ここに住んでいた可能性が高い。望月氏の指摘した在京の可能性も否定できないが、ともかく東下直前には赤穂にいたとしてよいだろう。
 包秀が武林唯七らとともに江戸に着いたのは閏8月25日とされているから(『寺坂信行筆記』、ただし『宿所付』によれば27日)、遅くとも閏8月10日前後には赤穂を発っているだろう。武林唯七は兄・渡辺半右衛門に宛てた閏8月11日の書状で「今十一日出足仕候」と言っている(『史料』下117号)。別の所で合流した可能性もないではないが、最初から同道したと見る方が自然だろう。
 閏8月11日に包秀は赤穂を出発した。包住の死はそれ以降である。このころまで父が存命であったことの傍証となるのは、8月25日付の岡野金右衛門書状(桜井角右衛門・金右衛門宛、『未刊新集』p343)である。年次を欠くが「命之内ニ今一度懸御目度と存斗御座候」とあって、死を覚悟した様子である。この金右衛門が父・包住で、元禄15年8月小康を得た時に書いて、江戸に行く包秀に託したとすれば、時期的にも内容的にもピッタリあてはまるだろう。

(4)死亡時期の下限

 上限を閏8月11日としておく。下限はどうなるだろう。斎藤茂・片山伯仙氏は包住の死を、根拠不明ながら9月5日とする。しかしながら、私はもう少し早いような気がするのである。
 というのは、9月5日付で大高源五が母(貞立)へ宛てた有名な書状(『史料』下121号)があるからである。「私事、今度江戸へくたり申候そんねん」に始まる名文の吟味はさておいて、ここでの問題関心は「九十郎母上お千代へもよりヽヽは仰きかされ候て」云々とある文言である。ここでは包秀の母と妹(千代)についてのみ書かれ、父・金右衛門包住に言及がない。もちろん女同士の話という事はあるだろうが、包住存生であれば書きようは違うのではないか。この時点で岡野金右衛門包住が既にこの世にないことを、貞立・源五ともに知っているように思われるのである。
 いや、源五は貞立とともに弔問を済ませているかも知れない。上述の包秀暇乞状に「よき折ふし、ていりう様・源五とのおこしにて」云々とある。貞立が閏8月末に京を発って赤穂に向かったのは既に述べたとおりだが、その母を源五が送っていったとしても不自然ではない。二人が赤穂に着いたのが包住死亡の前後だったということは大いにあり得る。その後に母に別れの手紙を書いたとするならば、包住の死は、手紙の書かれた9月5日から数日前のこととなるだろう。
 小野寺十内が11月3日付けで妻にあてた手紙では、10月の28・29日は母の四十九日であったが忍ぶ身なので寺参りもせず、同宿の親類間瀬久大夫・孫九郎・中村勘助・小野寺幸右衛門らと酒をくみかわしたとある(『赤穂書翰実録』、『赤穂義人纂書』所収)。包秀がメンバーになっていないのは、宿所が違っていたから(堀部武庸宅)やむを得ないと考えられる。しかし、その4日前が弟の四十九日だとしたら、何の言及もない十内はちょっと薄情ではないか。だが、あと数日、江戸入り(10月18日)以前だったとすれば、江戸に着いてからの様子を書いたこの手紙に弟のことがないとしても、怪しむに足りない。
 「ない」ことを根拠にした立論が不確かなものであることは認識した上で、ここでは9月5日を下限として、少なくともその数日前と推定したい。

(5)襲名の時期

 包秀はいつから金右衛門を称していたのだろうか。この問題、実はかなり厄介である。
 貞立は既に紹介した4月20日付けの書状のあと、8月17日付けでも桜井角右衛門妻に書状を送っているが、こちらでは父を金右衛門、息子を九十郎と書いている。恐らくはこの間に、桜井家から「りやうにん・金右衛門」ではピンと来ないというような返事があって、相手にわかりやすいように「金右衛門・九十郎」と記載したものと思われる。つまり、情報の発信者・受信者の都合によって、金右衛門を称したあとでも九十郎と書かれている可能性があるのだ。上述9月5日付の大高源五書状には、九十郎と記載されている。しかし、それがこの時点でまだ金右衛門を称していないという証拠にはならないかも知れないのである。
 12月4日の包秀暇乞状に戻ろう。これは父が亡くなった知らせを受けた後、最初の母宛の書状であると考えられる。ずいぶん時間が経っているようであるが、本人が「いかふこゝもとも何かと心隙なく」云々と言い訳をしている。この書状の署名は金右衛門なのに、改名した趣旨の記述も注意書きもない。岡野家の中では既に包秀が金右衛門だったと思われる。恐らくは出立以前、父が隠居して「りやうにん」(了忍とでも書くのだろうか)と名乗り、金右衛門の名を九十郎に譲っていたと考えた方がよさそうだ。
 名前でなく活動ということなら、もっと早くから後を継いでいたと言えるだろう。望月氏は包住について「遅くとも元禄15年の初め頃には病にかかり、一挙への参加は諦めざるをえない状況だったのではないだろうか」と書いているが、おおむね当たっていよう。『金丸』の方の同志リストが金右衛門でなく九十郎になっているのは、そのあたりの事情を示しているように思われる。もっとも病を得たのはもっと早いかも知れない。再び暇乞状によれば、包住は長患いをしていたとある。
 侍帳(元禄13年、『大石家義士文書』所収)によれば岡野金右衛門は組外200石である。赤穂藩の「組外」には、家老の嫡子や番頭・物頭級の家柄で無役の者が名を連ねている。岡野金右衛門も元禄6年の分限帳(同)によれば持筒頭を勤めており、その後御役御免になったようだ(『江赤』巻六によれば「船奉行物頭並相勤、近年無役」)。相応の家格でありながら無役であった原因は色々考えられるが、病気がちだったために退いたということも大いにありそうに思われる。

 以上、不十分ながら現時点での考察を終える。見落としや誤解はもちろんあり得る。大方の批正を仰ぎたい。