浅野長矩の遺言は伝えられたか

田中光郎

 「多門筆記偽書弁」を書いた時に疑問になったことがあるので、ついでに書いておこうと思う。
 浅野長矩が田村邸で切腹した時に「風さそふ・・・」の辞世を詠んだという話は疑わしい。田村家の記録にも残っていないし、浅野家に伝えられた形跡もない。これに対して、長矩が側近の片岡・礒貝らにのこした遺言は、田村家の記録に残っているので確かなことと考えられる。しかし、不思議なことにこれも浅野家側の記録を欠いているのである。

 『浅野内匠頭御預一件』(『赤穂義人纂書』)によれば、遺言の作られた経緯はこうである。田村家に預けられた長矩は「家臣に手紙を書きたい」と言ったが、「伺ってみないとできない」と返事。そうすると、家来の田中源五右衛門・磯谷七郎左衛門(原文のまま)に「此段兼て為知可申候得共、今日不得止事候故、為知不申候、不審に可存候由」と口上で申し遣わしたいというので、覚書にしておいた。目付が来た時に相談の上、この書付を大学の家来へ見せて渡した。
 この遺言が、意味の曖昧なものであることはよく指摘される。宛先のうち磯谷七郎左衛門が礒貝十郎左衛門の誤りであるのはよいとして、田中源五右衛門というのが片岡源五右衛門の聞き間違いか、または田中貞四郎と二人の名前を混ぜてしまったものか、判然としない。しかし、この遺言があったこと自体は事実と見てよいであろう。

 ところが、後に浅野家で長矩の伝記を編纂した時に、この遺言のことは欠落している。伝記資料はなるべく広く集めたはずではあるが、当然他家の内部資料まで見せてもらうことは期待できない。長矩御預中の事情については、赤埴源蔵が田村家中の親類から聞いた話(『家秘抄』収載)まで載せているが、田村家の記録は参照していないのである。田村家の資料に拠っていれば当然遺言について記載したではあろう。しかし、田村家の資料を得る便宜がなくとも、浅野家にこの遺言が伝わっていれば採用したに違いない。
 伝記資料ばかりのことではない。内匠頭末期の言葉とあれば、同志中でも事に触れ思い出しそうなものだが、彼ら自身にもその周辺にも、内匠頭の遺言に言及したものが見られないのである。もとより不在証明は困難なのだが、彼らの意識にこの遺言は上っていないように思われる。

 そうだとすると、そもそも長矩の遺言が彼らにきちんと伝えられなかったのではないかという疑いが濃厚になる。上述の通り、田村家ではこの遺言を大学の家来に伝えている。田村家サイドで言えば、長矩の遺体受け取りなどすべて大学家を通じて連絡しているから、当然の処置である。大学家の立場に即していえば、遺体受け取りなどの重大事に比べ、要領を得ない遺言の伝達などは些事と見なされ、多忙のうちに忘れ去られてしまったのではないか。
 可能性はほかにも考えられる。大学家が何らかの政治的判断で握りつぶした、赤穂浅野家に伝えられはしたのだが何らかの理由で江戸家老が片岡らに伝えなかった、などなど。もちろんその可能性の中には、きちんと伝えられたが何らかの理由で他言したり記録したりしなかった、というものも含まれるし、伝記編纂者の判断で採用しなかったという線もあり得ないことではない。

 赤穂事件の中にはまだまだわからないことがあるという話である。